panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

1958年のアメリカ西部の空

  何かページビューが増えているのが負担である。とにかくこっちに戻ったことを示すために書いておくか。
  今日は通常通り起き、3,4通メールを書いたら、その後昼過ぎまで寝てしまった。うーん。まだまだリハビリなのか。しかしこのリハビリが原因で我輩は太るのである。もう一つは実家で3食きちんとチキンのように食べるというよい子の義務を果たすことによってである。
  ともあれ、まだまだアジア連続研修・調査の旅からは回復していないのだが、ベトナム珈琲を、例のベトナム器具を使ってつくる余裕はあり、そしてテレビをみる気力もある。
  ジャック・レモングレン・フォードの1958年制作『カウボウイ』(カウボーイ?どっち?)を再観賞する。カウボウイの生態を細かく描いて興味深い映画だが、西部劇の一つの見方は、風景である。大地であり空である。年をとってわかったことの一つである。
  この映画も実に美しい。すべての風景が美しい。都市化一方のアメリカにおいて1958年という段階で、既にこういう大自然が人々の生活から失われていたという証拠だといえよう。昔は筋を追うのに忙しかったが、西部劇の神髄は、一つはこの風景であり、もう一つは一人立ちする人間の姿である。都市化は風景をけちらし、「組織のなかの人間」をつくりだす。だからアメリカ人の心のなかの出発点であるこの大自然と自律的人間が映画において描かれる必要があった。
  なぜ悪党どもに一人でガンマンは立ち向かうのか。前にも云ったか、それはアホではないか。集団には集団を。でも真昼の決闘のゲーリー・クーパーは人々の助力を得られず、一人で何とか兄弟たちにいどむのである。
  それにしてもアメリカ人の得意は経済封鎖である。これは、秀吉お得意の兵糧攻めだ。優位にあるものがその優位を利用して楽に相手を粉砕する典型的なやり方、もっとも集団力を発揮する戦略である。・・・ふふふ。アメリカ人は実際と映画では別のことをしていたのである。だから西部劇は彼らの心の原風景であるともに、国際的には一種の贖罪なのでもある。
  ということで。画像がないと、さびしいですなあ。と同時に、長く書いても写真がないとほんと数分ですわ、この程度。でも画像付きだと、大変でおまっせ。