panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

道の上に人生がある


  汗をかく。室内からゾッとしながら、そっと外を眺めると、うーん、まだまだ暑いんじゃね?いやですなあ。こんな太陽ギラギラの下で働くのは。・・・といってもちょっとした休暇中なのだが。私的には。
  函館では2階の二部屋を整理整頓したので若干知的作業に耐えうる環境ができ、もっていったグローバルヒトストリー関係の本を三冊読んできた。『なぜ豊かな国と貧しい国が生まれたのか』『経済と人類の1万年史から21世紀を考える』『不平等について』(まじめな学術書なのにこんな題名をつけて売ろうとしているのか。最初の本などグローバル経済史入門という原題なのだが)。もっともってけばよかったが、重たいわけで。我輩が腱鞘炎だということを読者は忘れないように。
  仕方ないから山ほどある未読のミステリーを味読してきた。再読もあり、筒井康隆の『フェミニズム殺人事件』は完全に中身を忘れていた。読後がもの悲しく、明け方の北海道は窓から吹く風が寒いので、ますます寂寞感を覚えるのであった。内容を忘れた読書って、とんだ暇つぶしではないか。ま、筒井だし、暇つぶしなのだから、それでもよいが、今回読んだまじめな本も数カ月たつと忘れているということにもなりかねない。
  ともあれ相当数読んできたのだが、読みながら聞くラジオに、いやに朝鮮放送がはいる。混信混信で、そういえば高校時代もそう感じたことを思いだした。東京ではほとんど朝鮮放送がはいることはないから、北海道はあっちに近いということなのか。それともバリアがないので直に聞こえてくるのか。侵略されている気分であった。
  開高健の本が結構あって、ひさしぶりに読み返すと、こういう標題の言葉があった。先進国では人生は壁のなかにある。あるいは、部屋にある。しかし東南ああアジアでは、道端を歩くだけで人々の人生が演じられているのをみることができる、そういう意味の言葉である。
  たしかに暑さで室内から放り出された人々は路上でいろんなことをしている。三食ソーメン状のものを食しているのではないかという発見も、ハノイのものだった。
  とくに現地の人々と知り合うことなく、あちらの人生をかいま見ることができる。我輩がなぜあの暑さにもかかわらず、路上を放浪して歩くのかが、この開高健の言葉に要約されているのである。うーん。さすが言葉の魔術師。現地の人間の受けている教育や教養からして我輩はとくに彼らと知り合いたいと思うことはないのだが、それでもあちらの人生を覗きたいわけで、そういう場合はヨーロッパでは部屋に案内されることが必要だが、アジアでは必要はない。即席麵の気安さが東南ああアジアの利点ですなあ。
  我輩の函館の家では花壇はいまや、3毛作の野菜畑と化して、メコン川下流域状態を呈しているのであった。しかも写真には写っていないが、山のようにポピーが錯乱している。ポピーがケシだということに気づいているのだろうか。それとも秘密でわが母は何かを密造しているのだろうか。そういえばちょくちょく物置小屋に、、、、、、、、。