panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

地球ラジオでハッとする自分の内なる東南アジア


  昨日は引っ越しの一日。朝7時に出て、仙川で食事して帰ると、9時半だった。2時間半だったわけではない。夜の9時半である。誤解しないように。って誤解する人がいたら会いたい。
  今日も今、夕刻、一週間ぶりの地球ラジオを聴いていて、ジャワの民族というより日本でいう昔のポップミュージックの紹介があって、愉快な気分になるととにも、他方、いい表せないがある種のエキゾチズムが喚起されていることに気づく。我輩の中に。
  アジアにエキゾチック?自分にはかつてないことなのである。我輩にとって伝統的に(?)エキゾチックなのは西洋である。決してアジアではない。しかしそういえば、母親には、あるいは母親の世代の一般的な人々には、時代的には戦前戦中でもあって、アジアはそういう対象であった。だから、よーく考えてみると、何となくそういう音楽や映画やちょっとした会話が大人の間では交わされていたかもしれない。
  万能の凡才だが決してアホではなく、歴史的センスにはすぐれていた、つまり我輩は早熟にそういう情報によって育まれてきたということがあって、そこで心身の深いところにアジアがいたのかもしれない。うーん、なつかしいという気持ちが強いので、エキゾチズムというより、哀切の情というほうが正しいかもしれない。
  いずれにしろ、デヴィ夫人については、小学生ながら、テレビを見て、こんなに完璧な顔があるものかと思った記憶がはっきりある。そしてそういう断片的な諸記憶とともに、高度成長時代の植木等的な上昇運気の背景が浮かび上がり、それが無責任な子供の心に、何がしかの幸福感のかけらをもたらした可能性は否定できない。
  かくして、いまこの時点で、東南アジアには「頼朝公、18歳のときの髑髏(しゃれこうべ)」(年は適当)的な自分の姿が反映されていたことに、気づくのであった。うーん、・・・それにしても遅くね?、、、気づくのが。
  しかしデヴィ夫人はいまはやや変わったかもしれない。デヴィ夫人だけではない。若いハンサムで背も高かった学者が公的な役目についてヤフーに出てきたとき、我輩は一回は見飛ばしてしまった。同じ人物とは思えず、知らない人だと思ったのである。わずか25年程度昔の面影をとどめるのは、ただ名前のみである。・・・夭折の美学が根強く我々の気持ちを捉える所以である。長く生きて昔のままであることは、どんな意味でも、稀である。

−−−−−−−−−−−−−−−−追記  函館には植木等の大学時代の友人がいて、たまに遊びに来ていたのではないかと思う。友人は今のイトーヨーカドー前の大手車ディーラーの社長だったはず。後年、そこも大手家電量販店となってしまい、我輩の母親もそこでチデジ用のテレビを買った。というか我輩が買ったわけだが。勿論。ふふふ。これは前にも書いたかも。
  なおよく見てみると、デヴィ夫人の目元の化粧が、日本人が想像するアジア的なんですね。当時の化粧はとてもいいのでは?