panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

1984年の東南アジアはどこもひどい感じである。


  ドリアンの国・・・のフィリピン編を読む。当時はマルコスの政権末期で、最低の時期であった。マルコス独裁が倒れるのは2年後、1986年。だからかフィリピンについての大沼先生の筆法はかなり厳しい。「陽気な文化の陰にひそむ不正とすさみの臭い」というのがフィリピンの章の副題である。内面からの腐食という言葉もある。
  マニラにスラムがあるのは有名だが、インドネシアジャカルタにももっと激しいスラムがあると指摘されているが、こちらの方は知らない。まだあるのだろうか。
  それにしてもマルコスといえばイメルダだが、今回函館で本を読むと、二人の息子たちが県知事になったり下院議員になっていたりと復権してるんだね。写真もほんとはレーガンとマルコス、イメルダが並んだのをウィキでみつけて貼ろうしたのだが、うまく行かず。でマルコス君の写真を。これがフィリピン大学法学部始まって以来の秀才だったのは有名な話(司法試験トップ合格)。比律賓(フィリピン)でも日本と同じで東洋版『赤と黒』(スタンダール)、つまり社会的上昇をねらう野心的な学生たちは法学部に行くか、医学部に行くということで、いってみればマルコスは戦前の岸信介のようなものだったのだろう。・・・でもこの子分肌の男がなあ。
  なお84年は我輩がロンドン留学から帰った年で、南回りで帰還した。途中シンガポールで一泊したのだが、だから何となく懐かしいものがあるが、印象は二点。とにかく暑苦しいということ、そしてラーメンがこの世のものとも思われぬほど旨かったこと。君待なんてものじゃなかった。忘れていたが、しばらくそのラーメンのことを夢にみた。・・・しかしだからといって東南アジアに行くという考えは微塵もなかった。

  このサイズだと張れる。イメルダだけどこからか探すかな。なお当然だが、当時巨額の比律賓への援助金を出した日本の首相は、中曽根ジュリアン・ソレルである。

  ミス比律賓かマニラかの特別賞受賞者なんだが。無理やり泣きついてとったらしく、猪口某〇子先生の博士号もかくやと思わせるものがある。後年はこれ、下の写真。長じてはマルコスといい勝負になる。大柄だから屋台でも引いているのがむいていたのではないだろうか?とはいえイメルダも名門の没落家庭の出身なのだった。・・・ちなみに、大変由々しいことかもしれないが、母の知り合いでイメルダ似のおばさんは、北海道にたくさんいる。韓国だと南大門あたりに、、、。