panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

なぜ昔のラーメンとラーメン屋にこだわるのか-----についてここで一言。一言だけ。


(庭の白の桔梗。白も綺麗である)
  ラーメンがとくに好きなわけではないのだが、中華の清湯なスープにとりつかれているわけである。豚骨スープは死になさい。去れ、九州!下品な、「うっ」とくるようなラーメンは消えなさい。スープに色がついていてどうするの?(ま、マンション前の繁盛ラーメン屋は豚骨なのだが。もほほ。たまに行ってる)
  でもそれだけではない。北海道のかつてのラーメン屋の小さくても堂々として広く感じる、うるわしい中華の香り漂う店が忘れられないのである。店主も堂々としていた。上は白い下着か上っ張りを着て、確かな職人技の「作品」群---ラーメンも焼きそばも炒飯も何もかもうまかったという記憶がある。
  気取ってラーメン道とかいってテレビに出てくるガテン系のラーメン店主を眺めていると、うーん、劣化したんだなあ、と思うしかない。何が劣化したのか。ここでは直接かけないのであるが。もうああいう、辺境にして国際貿易港函館あたりにいた、頭のいいラーメン屋はいまならラーメンなんか茹でてないで、普通のサラリーマンになっているんだろうなぁ。これが残念である。
  ラーメンはtime machineてある。縮れていない麵(ちぢれているのはアホではないかとすら思う)をすすりながら思うのは、かつての貧乏な日本である。学校に行けない有能な人間たちがつくっていた、かなり高度な日常風景なのである。いまも韓国中国に比べたら日本の民度は圧倒的に高い。しかしさらに謙虚で慎ましかった昔の日本を思いだして、自分もそうではないとはいえ、無性に昔に戻りたいと思ってしまう。そういうときにその遠い記憶をたどるよすがとして、鳳蘭なんかの店のあの「あずましい」(=清々しい)風情を味わいたいと思う。身のよじれるようなミケランジェロ的苦悩といえば、ちょっち大袈裟じゃね?・・・そうかな?
  私の一番好きだったラーメン屋は「君待」(きみまつ)である。マイ・ダディと(法的にかつそれ以外にも)戦った元やくざの親分が店主だった。太って、自身うまそうな大人だった。・・・君待の親父は最後は埼玉の息子のところに行って死んだと聞いた。ああいう人物でも最後は子供のところへいって(埼玉といえば北海道には大辺境である!)そうなるのか。20代の我輩はある意味感無量であった。

  母の庭は花と野菜の部に二分されている。いまや父の盆栽は地中に埋められ、野菜の部の一部である。去る者日々に疎し。