panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

コンパクトな世界から

  朝起きると秋のように爽やかだ。でも東京は30度にはなるという。湿度の問題だろうか。そう云えば不快指数という言葉は聞かなくなった。どこへ行った、不快指数?
  ハノイの最後の日にフットマッサージに行った。これで体がとても軽くなった。マッサージ師は若いベトナム人であったが、力が強すぎて、ここで頸動脈が切れて亡くなるかもしれない、と思い定めたが、幸運にも助かった。その後とある日本人に尋ねて、ドリアン彷徨が始まるのだが、その結果は徒労であった。その疲れをとるために入ったイタリアンの店はホアンキエム湖北の中心街にある。アエラの先週分を眺めていたら、「現代の肖像」というカラー版の部分にその代表的な建物である、ハイランドカフェの入ったビルが映っている。人物はシクロに乗って走るレアメタルの王者中村繁夫である。毎月ヴェトナムには来るという。ご苦労なことである。仕事でくれば、これは大変だろう。ま、個性豊かな中村氏と付き合うヴェトナム人も大変だとは云えるが(写真にはハイランド・コーヒーという看板も出ている。前日はそこでカフェ?した)。
  と、やはり、ちょっとでもアジアが映っていると嬉しいという事態がまた出来している。同行者H氏のコメントのように、我輩もまた、明日にでもどこかアジアの街に行きたいように思う。半分は休ませてくれという気持ちもあるのだが。

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  写真のアップが何度やっても出来ない。これが限度なのか。でも何の?。まだアップ出来ていない写真は多いが、文句を云っても仕方ないので、書くだけにする。
  アジア人とは何か。ヴェト君と比べると、我々日本人は決定的に非白人的顔つきだ。むしろ顔と体型で彼らは白人側のような気がする。アジアの同類はしたがってやはり日中韓である。タイ人も我輩には白人的に見えたし、マレー人もそうだ。たしかにヴェト君の顔で日本にないものはないが、だから通りすがりのヴェト君に似た日本人の名前を云っては笑い転げていた。田中角栄から黒木瞳まで、いない人間はいない。それに圧倒的に美人が多く、しかも力仕事の側に多いので苦しい気持ちにもなったが(日本でもそうかもしれないが)、におかかわらず白人的な匂いがする。顔は扁平、表情は平板、体型はごっつく、手足が短く、動きはしなやかでない。これが日本人だとすると、彼らはその逆である。仕草も意識的な振舞もそうだ。彼らには白人との共通性がある。
  ここから我々は日本がいかに孤立した国であるかについて、各々が自覚するにいたった。そういう論調は産経的で公言するのは勇気がいるが、そう思わざるを得ない。東南と違うだけでなく、東とも違う。日中韓との、体型以外の点についての違いは断絶と呼べるほどだ。文化的共通性や中華文明圏はあくまで日本人の仮想にすぎない。かくて生まれるアジアの孤児日本。だからといってヨーロッパではまったくないし、アフリカでもない。同朋と呼べる国のない「一国文明」社会が日本だなあとつくづく思うのであった。少なくとも東アジア共同体などという幻想はやめにしたい。
  写真なしだと説得力に欠けるかなあ。