また忘れていた
またブログを忘れていた。
最近アマゾンプライムビデオで、というか最近なのかどうかもわからないが、少なくとも発見したのは最近だが、石立鉄男のユニオン映画制作のラブコメというかホームドラマがずいぶんみられるようになっているので、「雑居時代」の原型、つまりそのリメイクが「雑居時代」なのだが、この「おひかえあそばせ」や、下町を舞台にした(雑居時代などは上層中産階級の家が舞台)「パパと呼ばないで」などをざーと、見るのではなく、流している。机の左を向くと、そこに立ち上がるのは石立鉄男アワーというわけである。というより、常時、声が響いているわけだが。
それにしても、脚本の松木ひろし、企画の小坂敬、音楽の大野雄二などユニオン映画という会社の1970年代のテレビドラマは、都会派コメディの傑作ぞろいである。とはいえ、「水もれ甲介」やパパと呼ばないのような泥臭い土地柄のものもある。そういうのは我輩は敬遠してあまりみなかったという感じだが、都会派といっても当時の東京は光化学スモッグと高度成長で、すさんだ感じの街であり、こんなのをみて東京は素敵だと思う地方の人間がいたのだろうか。
ただただドラマづくりのセンスが、現実の日本というか東京レベルをこえていて、その非現実的な、つまりはありえない現実の幻想を振りまくことになったという印象である。ともあれ、いまの人がみれば、どれも貧乏くさく、かつ主人公の石立の男臭さも、敬遠気味だろう。そして女のくせに、とか男のくせにとか、そんなセリフがほいほい出てくる時代でもあった。やはりドラマの細部に当時のあり方が露呈し、それが全体としてのシティポップ的なおしゃれ感によって覆われているという薄皮饅頭的な風俗ドラマであるように思える。
いずれにしても我輩の高校大学と重なり、何となく最後まで石立については嫌いにならないというわけなのである。昭和40年代もしくは1970年代の大スター、石立鉄男のテレビドラマの簡単な表なんかを作成してみる日曜日である。
今日は二人、読者を増やす
今日は仕事日なのだが、各レベル(?)で一人ずつコロナが出ていて、その結果、このブログの存在を知らせる。内緒ではないが、ごく少数を相手に書いているので、身内的なものしかこのブログは知らない。
ということで、二人読者が増えたが、果たして今後、二人がこのブログの読者でありつづけるかはもちろん不明である。
そういえば、この写真のように、昔は玄関がこんな状態で、しかもこのマスクはある種の記号で、ハッカー集団の一員であるらしい。とはいえ、ただ置くところがないので、玄関先に置いておいただけなのだが。
うーん、疲れた。眠たいが、一昨日からまたこのブログを復活させたので、何か書こうというわけである。無内容で無用で申し訳ない。いいかえると、我輩としては、昨日の大発見は、内容豊かで有用と思っているわけだということでもある。ふふふ。
石立鉄男は菅田将暉に表情がよく似ている、という大発見
ちょうど13話という半分まできて、気づいたことがある。石立鉄男が誰かに似ているということである。顔かたちというのではなく、動く表情と一個一個の顔を構成する部分が似ている。かなり似ているといっていいのではないか。
意外すぎる対比と類似だが、一度石立の百面相的な自在な顔芸をごらんになって、判断いただきたい。
伝説の雑居時代、知らないうちにアマゾンプライムビデオに登場
沈滞著しい日々を送っているが、一昨日くらいに、プライムビデオで雑居時代があがっていることに気づき、見ている土曜日。
前にCSで全編26話やっていたのでかなりを録画したが、テレビでは見直すことがなかなかできない。改めてパソコン上で見ていると、いろいろ細部までスーと頭に入り、きわめて感動的である。それもあって、ブログを思い出した。
そもそもブログにどうやってはいるかすら忘れていて、そうしたパスワード類を乱雑に記録したものを立ち上げて、なんとか入ることができた。うーむ。忘れはしないと思っているものほど、ついには忘れる。老化であろうか。過労であろうか。やはりどうかと思う。
ともあれ、人によると、ホームドラマ史上のトップともいうべきこの雑居時代は、やはり「おひかえあそばせ」のリメイクで、大原麗子は宮本信子のもともとは役だった。大変わりである。富士真奈美や大坂志郎などはそのままである。
山口いづみが主題歌を歌っていて、いまでも傑作である。大野雄二が作曲で、大野雄二は大作曲家という認知がいまではあるのではないかと思うが、もう少しさらに知られてほしい。シティポップ的な洒脱な音楽をテレビを通じて、あたかもそれがスタンダードな日本的現象のように喧伝した人物だが、実際の日本は彼に遠く及ばず、いぜん大野的なるものは一種の地平線だと思える。
ちなみに前から気になっていたが、名前が貧弱なので、注意しなかったが、というのも我輩はただのテレビ視聴者にすぎないわけで、そこまで気が回らなかったからなのだが、松木ひろしというこの脚本家は「七人の孫」の脚本家でもあったようで、その後の作品をウィキでみると、まさにこの人に(テレビで世界に開かれた)我輩(たち)は、かなりの恩恵を負っていることに今更ながら気づかされた。
近年の浪花節的なトレンディドラマ(形容矛盾じゃね、これって)の日本的堕落ぶりを、コロナでプライムビデオをよく見るようになった我輩は打ちのめされるように知ったのだが、それは当初のテレビドラマの水準を徹底的に裏切る形で、堕落が進行していたということを意味するものだということを確認しもした。
ともあれ、1973年の26話とは、74年3月にむけて、73年後期に放映されたということであろうから、大学受験を控えてこのテレビドラマに心底打ち込んでいたような我輩はやはりバカだったんだろうなあ。受かったからよかったものの。ああ、しんど。
Amazon.co.jp: 雑居時代を観る | Prime Video
ロック54
さきほど九九を忘れてしまい、59は45で、79は63でということから、69=54というのを導き出した。まことに遺憾というか、忍び寄る忘却の病に驚愕したところであった。
すっかり遠ざかってしまった
(ちみなにこの絵は私の自宅ではない)
今日は2021年の最後の月の最初の日である。
すっかり忘れていたブログだが、先月は多忙であって、多忙であるために時々思いだしていたのである。次の1日には書かないとと。ということで、きちんとブログに対峙する今日なのである。
でも書くことはあまりない。結局、行動が伴わないと感受性や思考も活性化しないのである。ということに気づく。ともあれ、先週は名古屋に出かけ久しぶりに気分が晴れた。たまにはいまあるところのものから離れることが絶対的に必要だという平凡な結論を述べて、終わりにしよう。