panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

忙中閑あり


  帰宅してから夜の2時くらいまで映画をみて過ごす、ということは普通はない。深夜まで起きている体力がないし、そもそも深夜は悲しくなる。できれば人と会うのも日中がよく、夜の街に出ることすらもの悲しい。歩く源氏物語とは、ポキのことなのである。光源氏と呼んでもらってよい。
  それで昨夜は『ミレニアム(ドラゴンタトゥーの女)』をみたし(途中から眠って、1時半に起きた)、その前の夜には『レッドオクトーバー号?を追え』をとうとうみた。いずれもテレビでやっているので、早送りができない、ということが味噌である。とうとう強制的に深夜の試聴となった。
  後者のほうは文庫2冊をいまだ終えられず(したがって放置しており)、いつかはと思っている間に幾星霜。もうあきらめて吹替え版の映画でみることになった。そしたら結構面白いので、やや驚く。コネリーも嫌いだし、もう一人の主人公の俳優も嫌いだし、コネリーの副官をやっているジュラシックパーク男優も嫌いだが、正直なところ、いい映画だった。
  やはり怒濤故に逆活性化して映画に執着しているようである。『トライアングル』『タイムリミット』『タイム・トゥ・ラン』『モーガンブラザーズ』『スリープレス・ナイト』『ミッション−8ミニッツ』『オールドルーキー』『シェットランド』『ビッグガン』『ズーランダー』1、2まで、見てしまった。数日でみた数としては多い。というか具合が悪くなった。その間、室内の清掃作業もしているのだし。
  そこで気づくと、恋愛もの以外でいえば(上のには恋愛ものはない)、金と暴力が一つのテーマだが、意外に親子の情愛テーマが多い。金・暴力に親子愛が結びついたタイム・トゥ・ランなんかはもっとも典型的な映画だといえる。というか最後にどんでん返しがあって、デ・ニーロらしい映画になっていた。退職後に老人研修生のような形でまた勤めだした彼の映画もみたのだが、いい俳優ではないか。一本調子のショーン・コネリーとは格がちがう。
  というわけで、NHK木曜日のファミリーヒストリーなども基本的に、サルとしての人間にとっての、血というものの決定的重要性をさまざまに変奏している。最近の映画の傾向なのか。それとも、近代化がここまで進んでも、韓国政治のように、自分の血のつながったものに財産を残したいという圧倒的な願望は捨てきれないということなのか。  
  『タイム・トゥ・ラン』ではカジノ経営で汚い金(殺人を厭わない)を手にして余命少ないデニーロが娘に財産を渡そうとするのだが、カジノによって家庭が崩壊したと信じる娘は失業者保護施設のようなところで働き、父の申し出を断るのである。・・・断られても断れても娘に財産を残そうとせまる父親という、この合理性の埒外にある感情の動きを、フランシス・フクヤマ著『政治の誕生』は、一般的に、「家産制の復活」という言葉で呼ぶことになったのであるが。つねに一族(部族)への愛着が、サルとしてのヒトの行動を左右するということである。血の濃さへのこの飽くなき執着と愛着は理屈をこえている。
  なお現在大著『富国と強兵』を読書中。念のため。著者もどっちかといえば嫌いだが(とくに名前が)、勉強家である。そしてかなりな水準ではないかと思う。