panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

トマゾ・アルビノーニ、キンタンシュの歌う


  仕事の日である。連続3日の出勤で疲労は極点に達した。帰宅後、6時に食事し、そのまま居間で動けず寝込む。7時すぎ無理やり起きて、郵便局にとりにいったアナ・キンタンシュ(ポルトガル人)のアルビノーニ集を聴く。
  疲れているときには天国的なソプラノではなかろうか。アルビノーニのオペラで残っているのはあまりない。そのうちいい曲を集めたもののようだが、アルビノーニは学生時代の我輩の偶像である。いつも協奏曲集のCDばかり発売されているので、こんなのは珍しい。
  バロック後期のヴィヴァルディとアルビノーニは同じ時期のベニスの作曲家であるが、前古典派に通じる彼らの華麗で劇的な音楽を聴いていると、バッハがいかに主流をはずれた存在だったかがわかるような気がする。ドイツ音楽史家たちがこぞってバッハとウィーン古典派を中心にする音楽史を偽装?したため、巨大なゆがみがヨーロッパ音楽の理解の上で生じたともいえる。
  世俗的な歌曲中心主義がヨーロッパの大きな流れで、バッハはやはり「小川」だった。いまのピアノで聴いてはじめてバッハの器楽曲はようやく完全に理解されうる。その美学的構造もふくめて当時の楽器では多くの場合は十分バッハの意図を表現することはできなかったのではないかと思う。だからバッハの評価は当時は局所的だった。
  対して最近ずっと聴いているし、紹介している前古典派の歌曲はまことに天上的で陶然たる世界をおりなしているばかりか、当時においても同じようなレベルで演奏されていたはずだ。もっといい演奏だったかもしれない。いい演奏が不可能なほど高度に技巧的に書かれたバッハとは比べ物にならないほどの水準で。
  ということで疲労はやや回復した。今日はクレイジージャーニーの日である。そう思うと少しは力がもどってくる。
  なお自室で書いているのだが、聴いているのは、実は、ヘンデル初期のイタリアオペラ集を歌うユリア・レジネーヴァである。キンタンシュは居間で聴いているもんで。おっほん。