panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

火曜に変更して月曜の不快な文科省的措置から逃れた、、、、つもりが。


  今年から火曜に仕事の日を変えたため、今日は自宅である。そのため、日曜夜、世界の果てまで行ってQを見終わり生じる月曜日を思う悲しみからは逃れたが、あにはからんや、連休の5月3日は火曜日で、この日が仕事をするよう文科省が措置していた。うーん。
  月曜の呪縛から逃れたと思ったら、火曜日もそうなのか。どうなってる、文科省。三流官庁の面目躍如ではないか。何をやらせてもダメなんだなあ、三流というやつは。ただし我輩には一流も三流もどうでもいいのだが。大して違わないという気もするのである。そういう風にレッテル貼りするのは要は相手を非難したいからで、この場合は非難したいから云ってみただけである。
  我輩たちがまじめに15回教えていたら膨大な知識になり、試験そのものが不可能になるだろう。いまはパワポがあるから、どんどん伝達される知識の量は拡大する。そこに一貫した理論的流れがあればいいが、大体は一回ごとにまるで水と油みたいなことを教示していることが多いので(我輩は違う。断じて。我輩の場合の問題はむしろ一本調子に同じ説のさまざまな局面を伝えていることにあるくらいだ)、これを記憶するとなると、生半可なことでは不可能だ。
  同じことを何単位もやるわけだから、やらされる側はたまったものではない。
  しかし先人は確実にその辺のことがわかっていた。だからだらだらやっていた。というかそういう風にしないと試験の範囲は拡大に拡大し、論究は深化に深化し、もう試験を通るのは一部のものだけになってしまうだろう。ということを知っていたのだ。
  三流官庁の自負にかけて、ひたむき学ぼう姿勢の文科省の役人だけがその辺の機微にうといということなんだなあ。
  ということを考える、そして10番のカンタータを聴く(ただし我輩はレオンハルトで)、という気持ちのいい春の横浜。午前。気持ちのいいときに気持ちの悪いことを考えても気持ちがいいということがわかる。いいことじゃね?