panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

時間がないことに気づく


  来月末の締切りに対してゆっくり一カ月あると思っていたが、手帳をみて思い出した。9月は部屋のリフォームがあり、10日から一週間東京にいないんだった。東南アジアに出向かないから時間的余裕があると勘違いしていたが、まずい。昨日からはじめたが、うーん、今日の体調は悪い。疲れた。
  ローマは一日にしてならないのに、体調は一日にして崩れる。整体にも行かなくてはならないし、もっと本格的な病院の予約もある。あああああああああ、せる。
  せっかく読んでいるア・ハピー・フュー(スタンダール)な読者に申し訳ないので何か書いておこう。今朝のラジオで都心では緑のあるビアガーデンがいくつかあって人気だとあった。そこでひととき過ごすことは非日常的な時間だからという。でも秋田には山のように緑があった。というか山が山のようにあり、緑は杉の大木群として日常的に存在した。非日常はむしろコンクリのビルディングのほうだった。
  ヨーロッパの普通の都会にも緑は日常的にある。東京が大きすぎるわけである。しかし100万人しかいない秋田が崩壊すれば、ひいては東京も崩壊するということではないか。もっと分散をはからないと、日本の長期的な成長も成熟もない。経済効率だけでいっそう集中化をすすめることはむしろ日本人の文化的潜在力を弱めることになるのではないか。オリンピックもやめたらどうだろう?
  写真は携帯でとった、象潟(きさかた)の夏でも食べられる岩牡蠣。2個食べて千円。難点はすぐ食事が終わってしまうことである。もっと人間的な食事の非日常化の装置を考案して牡蠣を食べることの文化的満足を拡大すべきではないか。美味いのにすぐ席を立たざるを得ない、海辺の直産の食堂であった。もっと考えればもっと金が落ちる。秋田県人はよく考えるように。海の家のような簡素なセッティングの時代は海の家そのものも含めて終わったのでは?ニース的な南仏の環境を整備して、しかも安く提供するということにしていただきたい。
  おそらくそうなれば、爪楊枝でないもので牡蠣をすくいあげることになるだろう。
  しかも、たまに東京のオイスターバーにいった経験からいえば、一個500円は決して安くはない。象潟の牡蠣は有名だが、新鮮さは劣るが、東京でも一個650円くらいではないか。850円?でもクーラーは効いているし、ゆったりくつろいで食べられる。爽快な海辺で一飲みにする快感は得難いとはいえ、秋田県人は豊かな資源のうえに安住しないように。