panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

秘境駅というポスト近代

(http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E7%A7%98%E5%A2%83%E9%A7%85+%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93#mode%3Ddetail%26index%3D17%26st%3D351)

  昨日録っておいた秘境駅の録画を朝見て、やはり今年は国内を旅するかと思う。東南アジアは体力を温存しておいて。
  秘境駅があるということは鉄道がつくられ、かつそれが時代後れになったということである。つまり近代のシンボルとしての鉄道がいったん成立し、追い越される。いいかえると、ポストモダン社会になってはじめて秘境駅が存在するということである。そういう国は少数派の先進国である。先進国だからこそ秘境駅が生まれる。
  今日のは石北線だった。道北・道東かの境目くらいにある遠軽市の映像をはじめてみた。昔ここ出身の同僚がいた。いまは北海道にもどったが、高校は函館ラサールだった。つまりこの辺境の公立以外となると、はるか道南まで来ざるを得なかったわけである。遠い昔である。いまではサッポロだってちゃんとした私立高校はあるだろう(?)。
  道産子ではあるが、南を向いていたので、北海道についてはほぼ知らない。でも日本の日本たる京都についても知らない。しかも首都東京についてもそれほど知りたい気持ちがない。
  ということを悟り、一人閑居のなかで、ようやくみつけたガブリーロフのフランス組曲を聴くのであった。今週水曜日のザ・知識人林達夫に関する報告を聞きながら、結局、どこにも完全な居場所を見いだせないまま死ぬのかとふと思ったが、昨夜の西尾幹二先生といい、40歳をすぎた人間に孤独はないのである。そもそも人間はあくまで孤独な存在だからである。存在の根源にある孤独をあえて声高にいいつのるのは成人の態度ではない。したがってあえて書いて記すほどには人間は孤独ではないというべきなのだ。
  こういうときはヴァインラウハを聴くことにしよう。