panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

風邪はなおったのか


  風邪が直ったようだという指摘を昨日ありがたく受けたのだが、果たして?風邪が直っても花粉症がその下にあるような気もする。直っても直らないというシジフォス的状況なのだが、にもかかわらず朝は早く目覚める。ま、といってもサラリーマン的時間ではないので、仕方なく起き出し、今日は東京に行く必要があるのだが、やめて自宅で待機する。、、、待機?
  昨日の夜からドビュッシーの気分で、4枚組のモニク・アース(フランス人)のピアノを聴いている。なんだか妙に心に沁みる。19世紀後期フランスの音楽は全廃してかまわない、団塊の世代も全員亡くなってかまわない、ついでに我輩の世代の大半も、というのがうちの家訓ではあるのだが、4月は小学校入学以来、ドビュッシーかラベルのピアノの月ではないか。
  奇妙な符号で、BSNHKのプレミアム・アーカイブは昨年やったセザンヌの再放送。もう一度見ておこうと思って、自室と居間を行ったり来たりして、後半は備忘のためメモもとった。
  我輩にとってセザンヌは長年理解できないでいる代表的な画家である。しかし彼は20世紀絵画の父であり神である。中学時代から美術の教師から中学生には思いもかけぬほど徹底的にセザンヌの作画については細かい解剖所見を聞いてきたし、セザンヌを理解できない現代評論家はいない。でも我輩には何がいいのかいまだによくわからない。よくないことはないが、それほどなのか。面と色彩で構成される永遠の調和の世界というのが、いま一つピンと来ない。
  というわけで、セザンヌについては何かあるたびに見るし、読んだりもしようと思っているのである(音楽評論家吉田秀和の最大の美術評論はセザンヌについてである)。
  いつか、といっても晩年の我輩である、いつかはいつかわかないが、セザンヌがもっとわかる日はくるのだろうか。
  ・・・ちなみにスザンヌは最近離婚したことは知っている。なぜだかこういうことはよく理解できる。低俗愛好家だからだろうか。低俗愛好の孤高な男だからだろうか。あるいは、低俗を愛しているので孤高なのだろうか。とすれば、それを孤高というのだろうか。むしろ低俗愛好の孤低な男というべきなのではないか。悩むところである。