panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

雨男


  深夜のみならずだが、ラジオのパーソナリティの力が落ちていて、どこのチャネルにしても、はなはだしくつまらない。どうしたことだろう?パックインミュージックは伝統的に面白かったが、芸人たちに占拠された状態だし、AKBなんかの超超若い連中のしゃべりも他の局ではあったりして、制作者の見識を疑う。自分の同じ歳の頃より彼女らの話は面白いだろうけど(謙遜と書いて我輩と読む)、でも公共の放送では自粛してもらいたい。
  ということでスウドクが段々高度になって手に負えなくなっている我輩であるからして、やはり何かを寝床で読むのだが、このスーザン・トムズというイギリスの女流ピアニストのエセーは見事につきる。こういうイギリスのエセーの伝統は続いているのだろうが、もうとっくに日本人のエッセイストは山のようにいるのでいまさら翻訳の労をとるということもなくなったと思っていたら、唸るほど見事だ。
  とくに感心したのは、大金持ちや貴族の邸宅で音楽会が催されるということがイギリスでは多いようであるが、そういう場合、主催者たちは自分たち音楽家をどう思っているのだろうかという問いかけをしている一篇。こういう問いを実は我輩ももっていて、社会的(経済的でなく)エリート層にいまや属するかもしれない音楽家たちの実際の社会的扱い、またそれらをどう本当の社会的エリート層は遇するのかには関心があった。
  でも日本人でそういうことを問うものはみたことがない。階層社会ではないからでもあり、はしたないからでもあろう。しかしこのトムズ先生は問うのである。そして職人として台所で食をあてがわれるような場合もあり(大半はうやうやしく演奏後はパーティになるようであるが)、地位が一定しないということを彼女は自覚している(うやうやしく遇されるのもちょっとどうかという気分ではあるらしいが、トムズ先生は)。
  勿論彼女がその地位に人一倍不安だということではない。イギリスの音楽家はかなりオックスブリッジの出身だし、彼女もケンブリッジだ。古楽なんか要するに大学教育を受けないと一時はできなかったわけで、出自も大学もエリートだった。ガーディナー(前に名前をだしてけなした)なんかは、例のバッハが小さい楽譜の切れ端をもっている有名な肖像画が自宅にかかっていた家系の出身である。いうまでもく複製ではない。彼の家庭にあの肖像画があったのである。びっくりしたか、もう!
  ともあれ、そういうわけで、金曜日の夜、一週間の勤めをおえて酒の一杯も飲んで演奏を聴く側の方がいいのか、週末には燕尾服をきて舞台にたっている方がいいのか、その選択でもあるが、ずっと手仕事としての職人階層であり、学校にかようことなく親から教わる形で受け継がれてきた音楽の仕事が、今日でもどういうふうに位置づけれるのかは微妙だと思う。
  日本でいえば芸大出たのだからそこで勉強したことは有用である、立派なことであるという教育が、実は、現代音楽衰退の最大の理由ではないかと隠れて思っている我輩としては、偉いご教育を受けたがために自尊心が邪魔する最大のケースが音楽ではないかと邪推しているわけであるね。モツ君だって対位法の勉強より、旋律を考えつくことが大切だと後進には教示していたというではないか。旋律は思いつけないが、こまかくいろんな作曲技法を知っている芸大出の音楽家というのが最大の、、、、、、、。
  やはり外出しようとすると雨だなあ。