panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

明日から仕事の再開


  よく寝たので朝が早い。もう羽毛布団を出したのだが、うーん、これはちょっと、、、。戻すと一悶着起きそうなので、何とか片隅に追いやって、もっと涼しく眠らないと。
  コレルリの全集をほぼ聴き終わって、合奏協奏曲のなかのクリスマス協奏曲として知られているものとラ・フォリアというバイオリンソナタも久しぶりに聴いた。学生時代、クリスマス時期になると、芸大の先生で啓蒙家だった服部幸三先生がバロック音楽のたのしみという番組で毎年何曲かのクリスマス協奏曲をかけるのだが、その定番の一つ。もう一つの定番の作曲家が思いだせない。居間に置いてあるのだが、面倒だしなあ、行くのが。
  廉価版のコレルリはBGMのようにつながって聴こえる。とくになんてことはないが典雅だし、後年のロカテルリのように突然変な音がするようなこともない。バッハの父親くらいの世代で、ルイ14世が亡くなる2年前に亡くなった。だからコレルリの時代はフランスは太陽王の時代だった。パリにはリュリが、ローマにはコレルリがいて、イタリア人音楽家のヨーロッパ支配の時代である。同じくウィーン宮廷にもイタリア人音楽家がいた。誰かをただちに云えなくなったところに衰退の兆しがみえるが、ま、仕方ない。
  外国盤の記述には絶対に音楽家の生年没年が書かれている。ほぼ絶対に。しかし日本のCDに書かれていることは少ない。絶対に。そのくせラジオでは延々と作曲家と曲の解説が行われる。アメリカではラジオでも生年没年だけが紹介されて、一切の他の説明がなく、曲がかかった。
  我輩にはこちらのほうがずっとよいと思う。一応の知識が入ってしまうと、啓蒙的紹介は繰返しになるし、そういう場合には逆にどの時代に生きたのかが不鮮明になる。より親切なのは日本の方だろうが、知性的なのはアメリカというか欧米の方ではないか。
  この時代感覚の弱さというものは意外と問題である。たとえばホッブズ、ロック、モンテスキュー、ルソーなどと並べて論じるが、ロックは名誉革命の弁証家とされるからその時代の人である。名誉革命は1688年である。権利ショウテン(変換されない)は1689年である。しかしモンテスキューが生まれたのはフランス革命の100年前だから1689年である。つまりそれだけの時代の差があるのだが、思想家の場合も生年没年が併記されるということがないので、見逃してしまう。・・・我輩は問題によく何世紀の人かというのを出して、大体、全体の文章から推測できるようにしているが、大体は間違う。これは結構、まずいのではないかと思う。・・・なんちゃって。オチがつけられないのが苦しい。
  写真は、学生時代は金銭的な問題で、レコードその他があまり買えなかったので、結局、エア試聴?というか、文章を読んで演奏を想像していたわけだが、そうしたブッキッシュな聴取対象となった代表的なピアノ本。ドイツかウィーンの有名な音楽評論家の本。そんなのが訳されていた時代もあったのである。今日ここまで日本が文化的発展をとげるためには、いろいろな地道が礎(いしずえ)があっということである。ゆめゆめそうした事蹟を忘れてはいけないわけだが、我輩自身が忘れはてる始末であって、、、、、。