panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

知性って何?


  金曜日、2週間ぶりのビールをまた銀座でしこたま飲んで土曜日の昨日は倒れていたが、夜11時から丸山真男関係の1時間半の教育テレビの番組を録画した。ようやく回復していたので、録画しながら、12時半までみてしまった。うーん。あとから早回ししたほうが効率的だったろうが。
  ともあれ、相変わらずの丸山君である。いくつかの古い印象がさらに強化され、あるいは一つの発見もあった。
  発見の方からいくと、まるで学術的でなく申し訳ないが、かかげた写真をみていただきたい。これは丸山である。しかしもし丸山と名前が入っていなければ、別の人だと思うのではないか。・・・カンサンジュン。よーく似ている感じである。湿った丸山真男、姜サンジュンさん。
  古い印象のほうはもうどこかで云ったしブログでも書いたかもしれないが、丸山の声には耐えられない。小人閑居して云々の我輩の人間の狭さなのか、声が悪いというのが丸山の圧倒的な印象として脳裏に刻まれていた。今回はそれを確認することになった。実に小役人的な、くぐもったような、もう少しひどいことをいえば小ずるいような感じがする。戦後知性の代表者にむかって小ずるいとは失礼だが、まったく声に魅力がない。人の見かけが99%というなら、声はそのうちの80%を占めるのではないか。
  晩年の声が艶を失うのは仕方ないが、どうも50代のころも大して違わない。透明な感じはゼロだ。小ずるいというのが失礼なら、高邁さや気高さが微塵もない。
  声自体を云っているのではなく、全体の言葉の発し方が、正直いって、嫌いだ。昔大学に集中講義に来られた東京の大学の有名な政治学者たちの何人かがこんな声だった。松下圭一学習院のもう名前は忘れた先生とか。この二人をみて、完全に失望したことを覚えている。オールバックでアタッシュケースで壇上にあがるのは止してほしいと思ったものである。
  そしてもう一つの古い印象は、出てくる有名な先生たちも同じような声だということである。声というより、この場合は官僚的な印象といったほうがいいかもしれない。しかも丸山君的オーラがないので、昔小学校とかにいた小使いさんみたいなのである。松本某東大名誉教授も飯田某法政も平石某東大名誉教授も。石田雄東大名誉教授はもう90をすぎているし、昔はひょうひょうとした江戸前の落語家みたいだったから、免除しておく。
  院生時代パスポートを盗まれて(どうして?我輩のような慎重に慎重を重ねる男が。石橋なんか叩きすぎて割ってしまう人間が?)、マドリッドの領事館で領事と話したことがあった。そういう領事が対応する資格で我輩はイギリスに留学していたのであるが、いつまでたっても領事が出てこない。いつまでこういう小姑みたいな、小使いさん的小役人と話していなけりゃならないのかと思っていて、途中で気づいた。この人が領事だと。うーん。我が辺境北海道の小学校の小使いさんのほうが、ずっとさわやかで毅然としていたぜ。
  丸山をめあてに集まり、そのなかでも丸山を東大で支えていたような日本のエリートたちってこんなに魅力がないのか。この場合ははっきり外見である。外見がケネス・ギルバートのように丸っこいからといって怒っているのではない。というか怒っているわけではない。ただ、あまりに役人的で溌剌としたところがないのが気になるというか、気に障るのである。
  これではいい学生は逃げていくのではないか。法学部的ななかにもいる知性がこんな法律家的な慎重さにあふれる事大主義者たちみたいな連中に師事することになるとは思えない。
  いまでも丸山ばかりが讃えられるのは、丸山が偉大なのではなくて、それに続く連中に学問的能力はあったにしても、それをさらに輝かせる知性や教養などに欠けていたせいではないのか。
  一人一人おもだった政治学者を思いだしてみると、どいつもこいつも、あ、失礼、どの方々もこんな風だったなあと愕然と思い当たる。今度という今度は骨身に沁みてそういう確信を得た。・・・思えば法学部のようなところから学者らしい学者をつくりだすことは、東大のようなところでも、困難なんだなあと、悲しいくらい痛切に思う日曜の朝である。合掌、というより合唱しよう。バッハでも聴いて。