panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

おっと間があいた


  もう火曜日だが、週末のラオスフェスティバル。ようやく起きて行こうとしたのだが、午後は雨だというので、一人ででかけてビール一杯(肝機能障害)、何か水牛関係の一品(ラープ以外)食べてまわりのラオ人をみて帰ってくるだけだしなあとか思って、外出を控えた。近所のカフェバッハ系の独りよがりな珈琲屋に行って戻っただけで疲労を感じるくらいだから、ま、よかったかもしれない。・・・しかしそもそもやめた理由は雨だ。その雨は全然降らなかった。当たらないなあ、予報。最近は。一時の精度はない。気候大変動の始まりなのか。
  しかし、それはそれとして、家人たちはラオスにも東南アジアにも興味はない。だから行く気はまったくない。そもそも週日は忙しく働く家人たちに週末の代々木公園は魅力なしなのであるし、東南アジアはあくまで宿敵なのである。家人1の、長期入院、さらに退院しては風呂場で倒れるという古典的振舞の原因はタイなのであるからして、さらに奥地のラオスになど興味をもつはずはない。
  かくしてやはり我輩の週末は孤独にすぎていくわけである。というか大腸検査でもしたほうがいいのではないか。もし終末期であっても、このブログの読者は驚かぬように。生まれた、ひるんだ、そして華麗に加齢した。墓碑銘はこれだ。
  ということで、家にいてやれることは充実の一途をたどっている。コーヒーを淹れる器具は山のようにあるのだが、ハリオのドリップ器具も買った。真ん中に穴があいているので、ペーパーはそれ専用のものを使用する。うまいように感じるのだが、自信はない。
  そもそもいま飲んでいるのはフツ族ツチ族のRwanda(ルワンダと入れたら、こうでる)産のコーヒー豆だ。シティローストかそれ以上の深煎りになっている。ケニアコーヒーと同じだ。実は長年の嗜好が変わって、我輩は深煎りに飽きた。ベトナム珈琲のあのイタリアンローストが好きだったのだが、香りを重視すると中煎りか浅煎りになる。カフェインはきついが、香りがたつのはこっちなのだ。かくしてルワンダ珈琲はいまのところいま一つなのだが、買った以上、飲むという高度成長的メンタリティは健在だ。

  火曜日ということは月曜日の後半というのが我輩の暦である。午前中一杯寝床を離れることなく、ようやくいま午後3時、どうにか気力体力が回復した。うーん。ラグビーでもやっておくんだった。体力ないことおびただしい。しかも我輩の仕事のスタイルは、華麗にしてもっと華麗である。したがって職場では華やかにして威圧的なわけなので、その反動は、既に帰路の車の中で生じる。もうノイズキャンセリング・イヤホンは手放せない。
  というわけで、昨夜からシューマンのCDを大量にひっぱりだしてきて、生きる力の回復につとめているところである。いまはフィッシャー・デースカウの詩人の恋。ピアノはエッシェンバッハ
  タイのクーデタについてはフォロー中だが、昨日は研修先にタイがあがっているのでびっくりした。常識的に個人旅行は自由にできるだろうが、集団では許可がお上からはおりないだろうから。ひそかにカンボジアからタイに飛べばいいともいえるが。若人の希望はいま、カンボジアアンコールワット)かシンガポールに絞られた。うーん。今年も行くかと思うと、いまからアメフトでもはじめた方がいいかと思うのであった。ぐすん。