panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

雨の秋


  雨の秋。天野アキではない。あまロスでもない。
  ようやく本格的に秋の仕事にとりかかる。外はまた雨。京都はいい天気だったのでよかった。
  秋になっても昔ほど秋という感じはない。昔といっても我輩の場合は北海道の秋を思いだすし、大体は中高時代の秋である。秋らしいように思ったのは、まだ生まれて大した時間がたっていなかったからであろうか。いずれにしても夏は東南おおアジアにあるのだから、秋を探さないといけない。秋はどこに行けばいつもあるのだろうか。
  云っておくけど、いつもって云っても、冬とか春に秋を探したいというのではない。それってちょっちおかしい人でしょうが。我輩の云っているのは、どこに行けば、ある時期に秋だなあと嘆息できるかということである。
  写真は、夏の見本を一枚掲載。今日もミャンマーは夏だし、七色仮面仏陀はまとまって信仰の対象になっているだろう。

  ちなみに御利益という言葉から連想されるように、我々は普通お参りしたときに自分とその周辺の安泰関係を祈る。小乗仏教もそうだと思ったら、実は間違いである。そうとう熱心に祈っているので、我々の想像ではそうなってしまうのだが、現世利益については別の神様に祈るらしい。御利益専門家の神なんかがいるようである。では何をしているのか?実は、自分を見つめ直しているということらしい。
  びっくりしたかな?インドシナの人々は一見貧乏で窮迫しているようにみえても、その点が中国韓国とは決定的に違うんだよ。ま、我輩も。我輩は世界平和から祈るわけだが。でもすぐ続いて、現在の平和も近代戦争の結果だと考えて、そうした平和をもらたした戦争がなくならないようにも祈る。その結果、理論的齟齬をきたして、神様が発狂するのではないか、あるいは統合失調にいたるのではないかということを長年、観察しているのである。
  我輩の祈りは天に通じているのだろうか。通じて神様が発狂した場合、その後の世界平和と戦争の弁証法はどうなるのであろうか。あるいは、ニーチェの云うように神が死んだ方がいいのか、それとも発狂したけど死なない方がいいのか。神の試練ですなあ。もほほ。
  しかしなんじゃね?この二枚目の写真にあるようなぷっくりしたスフィンクスみたいな仏様ご一行の一員に祈っても、ちょっと過度の期待はできなそうじゃね。・・・ふざけてるのか?