panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

我輩も考える

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  我輩の日々は決して知的遊戯ではない。面白ブログに書くことが一面的なので(あえてである。わかるね。笑わかせるつもりなのである)、誤解もあろうかと思う。東南アジアを横目にみながら、ベト君の非ベトナム化をはかりつつ、たとえばこんなことを考えている。
  革命によって指導層が変わり、前近代から近代になる。これが革命史観というもので社会科学では王道の見方である。現に、近代日本の評価が低いのは、明治維新が本格的な革命ではなかったからだという説はいまも強い。しかし果たしてそうなのか。
  ジェントルマン資本主義という最近のイギリスの歴史学説は、前近代から近代にかけてイギリスでは支配層の変化はなかったと主張している。普通は封建領主という貴族層が都市ブルジョワジーに破れていくというストーリーなのだ。しかし領主層がジェントルマン階層と手を結びつつも一貫して支配の座を維持し続けた、というのがこの説である。
  とすると、産業資本家がイギリスを支配したことはなく、地主や株主や高級専門家に変身したかつての貴族的階層がイギリスを支配しつづけているのだから、ブルジョワジーが行う産業国家としてのイギリスの没落(イギリス病)というのも実はないのだ。そういうことになる。
  さて問題は、果たして支配の主体が完全に入れ代わることが必要なのかということである。前近代の支配者が新しい支配者に交代することが何か新しい、よき時代の始まりの特徴だという考え方に、誤りがあるのではないかということである。
  英国で近代的産業革命が起きたということをいったん認めよう。そしてそうなったのはイギリスで支配層が政治権力をある程度維持できたからではないかと問うてみることは可能だと思われる。
  むしろ支配層の継続があるからこそ新しい体制的移行が可能になるのではないか。そうでないと、かつての支配層は新しい支配層や権力的移動に徹底的に抵抗するだろう。その結果、革命が成功しようが失敗しようが、社会が受ける傷は深まる。とくに前近代から近代への移行という歴史上例のない飛躍にとって、支配層がある程度継続していることはむしろ新しい試みを可能にする苗床だったのではない
  アフリカや南米、そしてシナやアジアで植民地後の革命政権がうまく行かないのは、勿論白人支配によって旧来の支配層がずたずたにされたということもあるが、まったく新しい支配者たちには自らの利益を擁護することが急務であって、本格的な社会的経済的政治的な制度の大革新を行う基盤がなかったからではないかと思える。むしろ支配者の個人的私欲を拡大するほうが合理的だったからかもしれないと考える。
  こうしてみてくると、左翼的歴史センス自体が政治学的には誤りであって、一定程度の支配層の継続こそ、近代という未曾有の社会的革新を迎い入れるには、最低限の必要事項だったのではないか。
  うーん。やはりますます我輩、孤立感を深めていくなあ。これは誰も支持しないのでは?でも歴史を素直にみていけば、革命によって根本的に改まってよりよくなった世界=国は実はごく少数なのではないかと思う。現行の学問の支配者である左翼的社会科学にはこの点は見えないのかもしれないが。ま、いいけど。
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  もう一つ考えているのは、このフロストの本、ミャンマーで読むか、行く前に読むかである。つまらん悩みだが、深刻ですなあ。作者はもう死んでいるから、最後の作品ではないかと思う。うーん。