panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

老害老人を考え、、、ない


  今日も午前中から職場だ。雨だし車。会議がさらに鬱陶しい。
  オフィスに戻って前古典派を聴く。シンプルライフに突入する。前に述べたように、我輩のシンプルライフは豪華絢爛、質素にして素朴な3点セットからなっている。珈琲+クラシック+本。
  しかしシンプルライフの原理的問題は、これでは退屈もしてしまうということである。多くは体調によるのだが、まったく没入できないときがある。我輩くらい退屈のない人間はいないが、人間である以上は退屈の危機は常にあり、そして激しく襲ってくる。しかも我輩の一週間は4日である。実質2日ともいえるが、この不活性な日常が結構恐ろしくもある。・・・ま、この世に天国はないのだから。
  人間が生まれて(というか猿人が)、世界に散った図を掲げておいた。会社も学校もなく、ゲゲゲの鬼太郎の漫画もなかった(ってわかんねえだろな?ということすら、お分かりにはなるまい)何百万年の間、人はどうやって暇つぶしをしてきたのか。
  昭和30年当時の日本には冷蔵庫も洗濯機もきっと倦怠期も社会的にはなかった。少なくとも一般化していなかった。クーラーなど夢だったろう。クーラーの原理はフランス革命前にフランクリンが実験しているのだが(気化熱の冷却効果)。・・・今の東南アジアからクーラーをとったら日本人は到底暮らせないだろう。だから19世紀にイギリス人がたとえ支配者としてであっても、現地に暮らしたというのは、相当偉い感じもする(しかし現地の多くは今でも電気もない地帯に住んでいるわけだが)。
  近代を批判するのもいいが、こういう生活基盤の確立が近代世界のおかげであるかと思うと、暗い気持ちになる。