panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

亜細亜のスイス------2日目の朝、昨日の移動を振り返る


(よく撮れなかったが、スイス風では)
  朝8時、LPで最初の起床。
  さて昨日朝、ピッククアップの車を待って食事中、ヴィエンチャン・タイムズを読んでいたら、今年は1カ月寒さが前倒しで、北部は寒過ぎて学校の始まる時間を8時か8時半から9時にするらしいとあった。うん?。ここ今いるところって北部でね?。やや寒い。半袖では無理かも。雨でも降ってるのかと起きがけに思ったくらいだし。つまりこれが12月なのだ。冬とはいえないが、秋も秋、晩秋の感あり。晴れてくれないかと思うが、天は我を、、、ですからねえ。
  なお、パソコンのファンの調子が悪い。バスの振動か、信じられないくらいの重量をもちはこぶ外人の荷物の重みでおかしくなったかも。万が一、書けなくなったらそういうことですので。ネットも通じませんから、そのときは。
  さて食事も終わった。ここはオムレツでは。2階のオープンテラスにいる間にみるみる晴れてきた。うす曇り的晴れだが、よしとしたい。で、昨日だが、VIPバスには外人しかいないと書いてあるが、半分はラオス人で、田舎もんだからとにかく話し声と電話がけたたましい。声調のせいか声を落とすということを知らない。とうとう眠れなかった。しかし一番の理由は、2階の一番前のせせこましい席を割り振られたからだ。ここはひどいが、来た順番のようで、3番であった。前方が見れていいのではと思うのは大間違い。そこにはVIPと大文字のステッカーが貼ってあり、Vの間の隙間から世界を眺めるのであった。しまいに目がおかしくなる。しかもほぼ満員で逃げられない。1,2番の外人はどうしても席につけなくて(物理的に。女性だが)、移って行った。我輩はそこはそれなんで、4番の小柄ハンザムなラオ人と一緒にいたのである。ハンザムつながりだったからかな?。・・・笑えない。
  ともあれ、3時間後12時にはヴァンヴィエンのあたりの奇形な山にぶちあたり、堪能した。長いこと続くので飽きない。でも掃除をしないという我輩のラオ人への直感に間違いはなく、著しく硝子が汚く、写真はどれもその水滴の跡がついたガラスごしに撮るので、いいものはないのが残念。でもこれは世界的奇観では。2時に食事。乗車券に食事券がついている。知らなかった。白人は知ってるのだが、英語のアナウンスはなかった。さて告白だが、我輩は、思うに、引っ込み思案だが、やや潔癖症でもある。箸を鍋の中に入れるのは、大好きというわけではない。モツ鍋は一人だけ菜箸を使ったりする。でも後の3人は箸をぶち込んでいるので、内心は泣いているのである。ということで、やはりアジア食には先天的にむていない。結果的に、これまで、指さしで惣菜を選んでご飯にかける式のアジアの代表的一皿料理は、試したことがなかったのである。エンポリでも。汚らしいように思えて。しかしここは山の街道、食の選択は一つだ。白人はどんどん食べている。白人は強いのである。身の毛もよだつというと大袈裟だが、食べた。肉と野菜。ラオ人は野菜と野菜の組合せが多かった。そして、旨かった。全部は食べきれないが、皿の底につかない上層部については食べることができた。旨いだろうことは知ってるのだが、どうやって食器を洗ってるかと思うと、胸が詰まる。スープも上品なのだが、その食器も調理も気にかかるお年頃なのである。
  で、ここからがすごいことになる。山は10時半ごろ初めて現れ、ヴァンヴィエンはまた平地に戻るのだが、食事の後、また石灰岩質奇形山が次々出現し、バスが山に登るに従ってますます身近に迫ってくるのである。気づくと、相当上に来ている。下は、何と、まるでヨーロッパ・アルプスなのだった。綺麗だし、山も急激にそそり立つので、スイスにいるかのような不思議な雰囲気になる。もうこっちも破れかぶれになってるので、ナンバー1の席に移動してやや改善された視界から、心ゆくまで堪能(2度目だが)しようとした。なぜこの美しさが語られてこなかったのか。それとも有名なのか。
  が、ここで問題が。ずっと問題であったのだが、ダブルデッカーバス2階正面最右翼の席は、奈落の底がすぐそこという席で、かつ運転手と同じ目線で、しかもり谷底に近いという座席なのだ。これは、例によって、アジア得意の長く執拗な拷問であった。2階建てバスとはイギリスという近代国家を走るものではないのか。タイの深夜バスは快適そのものだったが、それは米軍が作った道路あればこそである。しかるにここラオスの道路は、舗装技術の未熟さからか、穴ぼこだらけ、つぎはぎ王選手権優勝者級で、バスはそこを慎重に避ける結果、2階はそのたびに、左右に大きく揺れるのである。右下は絶壁。アルプス一万尺♪とか歌っている場合ではない。見晴らし抜群、恐怖一生。我輩は運転手と一体化しているので怖いわけで、他にそんな乗客はいないから、ほんと損したなあ。でも生きているからね。運転の技量は大したものだった。落ちても日本には報道されないラオスである。今回は我輩が恥さらしになるところであった。死ぬだけでも十分なのに、笑われたんじゃなあ。とにかくこんな道路の悪い国でダブルデッカーなど23年くらい早い。やめてほしい。
  ではバスが悪いのか。いや、これほどの絶景はチベットにでも行かなければ、あまりないのではないかと思う。でもブータンだのチベットだのネパールだの専門家がコレラになるところである。ちょっとねえ。ラオスでは道がうねるので長いこといろんな角度から高い絶壁のクールな山と、下に広がる美しい草原の輝きを眺めることができる。言い古されて嫌だが、絶品といっておこう。したがって、マイクロバス---ただしトヨタ---でいい運転手つきで乗られることを勧めたい。アジアにいて、これを体験しな手はない。
  そして書くのも意外であった少数民族。道端に家を建てて暮らしているのかあ。山にいても山そのものじゃ暮らせないもんなあ。しかし道端には土地がない。彼らの家の半分は長い木で下から支えられているのである。そしてその下は激しく急角度で何百メートルも落ち込む谷底なのだ。これは我輩流には日々拷問という範疇である。寝ても覚めても、立っても横になっても、いつ崩落してもおかしくない。危険が生活の大部分だ。リスクなんてものじゃなく。バスが転落しても報道されないなら、少数民族崩落が報道されるわけがない。あー、震えてくる。
  実は今回飛行機を避けた理由の弱い一つはラオスエアはよく落ちているらしいという事実を知ったからだ。それまでラオスエアが墜落した報道は知らなかった。だかあ落ちないと思っていた。でも事実は逆でよく落ちるし日本人が乗ってないので報道なしなのであった。バスや民家が落ちてもどうてことないんだよ、きっと。
  かくて何十という集落を山のてっぺんで見、途中で見、またてっぺんで見、途中で見と繰返した。曇る空に夕日を見たのが5時40分。50分にはバスのライトが点灯し、すぐまったく灯りのない世界に突入するまで、あるいは突入後も、ポツンポツンと、あるいはたまに比較的大きく集落があるのだった。かろうじて電気は通じ、大きなパラボナアンテナもちらほら見かけた。原始時代とポストモダン・グローバル時代が共存しているのだ。7時前に平地に降りたと思うのだが(それまで何度もバスは下がったと毛と上がっていくのを繰返していた)、それから30分でLPに到着した。・・・今朝LPを歩いてみると、夢のような世界である。しかしすぐそこには、まだ徒歩で何キロも歩く生活がある。どうやってこれを平準化できるのか、分からない。植民地時代のフランスすら、開発の見込みなしとして、インフラ整備を怠った国がラオスなのである。