panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

人と面と向かったら、どんな関係、場面でも、社交の要素を欠いてはならないんじゃね?

  昨日は、タマサートで3時間話を落ち着かない椅子で聞いて、バスで1時間かけて帰ると、へとへとでそのまま眠ってしまった。どうせタクシーで帰ってもそれに近い時間はかかるのだが、ひさしぶりに話を謹聴したことがこれほど疲労するものだとは。まずい。タイに来てぼんやり暮らしに慣れ、ますますじっとしているのが嫌になった。にしても、人はどうして年をとると、一方的に間断なく話続けるのか。人にじっと聞かせてはならないということに、気づかないのだろうか。話はどんな話題であれ、対話である。相互の丁々発止である。それが一方的では、拷問と同じだ。自分の得意な話題であっても、ただ知識を繰り出すだけでは、教養があると評価することはできない。相手の溌剌とした関心を引いてこその会話ではないか。理系のオタクじゃないんだら。議論や知識の伝達も、社交です。そんなこと、社会性のない我輩に云われてどうする。社交の一種だから、こちらも、うんうんと、礼儀上うなづき返すが、動作の単調さで気が狂いそうだ。って、相変わらず大袈裟ですなあ、我輩も。もほほ。、、、でも振り返ると、昔から、我輩の職業上の関係では、そういうのだらけだった。伝達に社交性がないと知識も権威主義の気配を帯びるし、何と云っても苦しい。日本の戦後の近代化には、社交を貶めて考える質実剛健の気風があったと思うが、質実剛健一点張りでは人は育たないって。今の日本人くらい影の薄い、人間的でない人間はいない。虚飾のないという意味での質実剛健は悪くないが、それが機械的な効率だの過度な公平さだの硬直した真理体制だのと結びついていくと、一分の隙もないみたいなのが評価されて、余裕のないことになる。北海道の方言では、大変だねという意味で、ゆるくないね、というのだが、あー、ゆるぐね一日だった。、、、ま、この辺で。・・・なお相手はS先生ではない。
  何だか最近、何かと拷問という言葉が文章に出てくる。クメール・ルージュの遺産?あるいは伝言?って、二番煎じか。ま、五番街のマリーにもよろしく。って相変わらず意味不明な言動が多いが、これも文章上の社交のつもりなのだ。読んでて退屈しないようにと。しかし大きなお節介かも。逆に退屈してるのかもなあ。親孝行、したくないとき親がおり。ってまた意味不明。

                                                                                                                                                                      • -

  ユーチューブのモーツァルト。やはり一桁の番号のピアノ協奏曲が溌剌として面白いのでは。9番がジュノームである。20番台の傑作群はそう簡単に聴けないのではと思うのであるが。とくに愛好家でもない限り、最大の傑作群から聴けるほどモツ君は簡単ではないのでは。才能のない我輩には、第1主題と第2主題の展開が追えないことがままある。しかし初期のモツは前古典派的だから、没落する貴族社会の憂愁さをたたえて、懐旧的心情が刺激される。って、これじゃ、日本の我輩であるなあ。・・・タイらしく、アジアらしいことを書かないと。自戒or自壊?
  前に当たり前だといったワット・プノム・イン・プノンペン。でも門構えはちょっとハチャメチャだ。下から見上げたところが笑える。色遣いが軽い。ピンクのモーツァルトって松田聖子先生も歌ってらっしゃるし。そして我輩が100リエルを寄進したところ。脇に挟んだ。線香もお供えした。イワシの頭も信心から。上から眺めると、やはりプチ・パリな風景が印象的。プノンペンの旧市街側にあたる地域だったと思う。フランス大使館はそっちだ。