panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

テレワークの疲れるわけ

f:id:panacho:20200504155724j:plain

   NHKのらららクラシックで(先週)、ショスタコのワルツ第2番という有名な曲を聴いて以来、それが耳について離れない。YouTubeでいっぱい聴ける。一度聴けばどこかで聴いたと思えるノスタルジックでスラブ的でもあり、リズムも面白くて、かつ切ない曲である。世界中で演奏されているようである。ただし上のCDはそれとは関係はない。


Dmitri Shostakovich - The Second Waltz


  さて今日なんかは9時過ぎまで起きれなかったが、それはよく眠れていないので何度も眠ろうとする果ての疲労のためである。どうも寝つきも寝てるときもよくない。みんなはどうしてるんだろう。

  と考えているのは、普段から非社会的な生活をしているからである。この程度の自粛生活など、へいちゃらなはずなのである。なのに、どうも低調である。心身ともに。どうしてかを考えて、一つの解答を得た。

  それは、テレワークによって、職業生活と私生活の垣根が徐々に崩れたこと、これである。我輩の仕事は職場でも家でもできる。しかし人を前にしゃべるという苦行については、当然、家の外でやることなわけで、それが終われば、車で帰って、そのことは忘れるというか、もう終わったものとして処理できる。

  しかし今のような状態では、仕事も娯楽も私生活も、一つの机の前で済んでしまう。済んでしまって、いいのだが、逆にいえば、区別や垣根が取り外されて、すっきりしない。1つの仕事が終わったという感じがしない。だから、いつもでも社会と切り離されたという爽快感がないのである。

  災害は人々を結び付けるが、コロナは人を隔離する。これが東大名誉教授御厨貴が昨日の読売新聞の巻頭で云ったいたことである。しかし、テレワークはむしろ人を四六時中、仕事に結びつける。仕事が背景とする社会がいつも自室の机の奥にあることが、ひしひしと感じられる。その、切れた社会との遠隔的でもありきわめて近接的でもあるつながりが我輩を不愉快にする。心身ともに。

  ということが、不調の原因である。これはドゥルーズのいう管理社会に近い。フーコーの監視社会では、5時をすぎて工場を出てくれば、もう組織の監視はきかない。しかし監視の徹底としての管理社会的装置の下では、人はずっと何かの目を感じざるを得ない。トヨタのQC(クオリティコントロール)のように、風呂に入っていても、工場労働者が何か製品づくりの効率化に役立つことを考えるよう強いられるのと同じだ。

  社会というものが何もないのに、そこにある。パソコンのむこうに。電子的な監視では、それはない。その意味では社会学者デヴィッド・ライアン的な監視ではない。しかし、もっと心身の単調な社会的組み込みを可能にしてしまうような包摂の感覚、あくまで感覚がひしひしと迫り、それの感覚が抜けない、とれない。

  最近の不調はそういうことだと理解した。したがって一日もはやく緊急事態が終わり、社会が再開してほしい。再開すれば、逆に、我輩の場合は、社会を切断することができる。ここには変な逆説があるが、ま、そんなところである。

 --------------------------------------------------------------------------------

www.msn.com


新型コロナ重大局面 東京はニューヨークになるか 20200403 WeN

   4月上旬で同じことを児玉龍彦という先生はおっしゃっていたのである。調査母数を公表しないというのを今日のテレ朝のワイドショーで激しく攻撃していたが、もっと前にわかっていたことなのね。どうしたもんか、政府や医師会やその他専門家たちの体たらく。

  東京は感染者が多いのか少ないのか。ほんとに他人に感染させる率が0.5なのか。なんにもわかっちゃいないのではないか。実は厚労省も。タイでも自殺が増えているらしく、次は日本ではなかろうか。

www.msn.com