panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

大いなる誤り

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 まことにアホだった。前回、三日月君の出番が多いと書いたが、三日月君は麻生久美子ではないか。三日月君はいいのである。若干年食った感は否めないが。そうではなく、吉岡某(彩雲君)の出番が多すぎると云いたかったわけである。

 家人より指摘を受け、ただちに、日曜朝のいま、正すわけである。あらぬ誤解を与え(って誰に?)、すまんことです。

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  夕方、リフォームした風呂に入っていると「神田川」の南コウセツがコシノジュンコ(別のコシノかもしれない)と友達らしく、ラジオでしゃべっている。神田川系統の曲はまったく好きになれないが、選択肢がないので聴いていると、いつも銭湯で先に出て待たされているのが女性だと気づいた。歌の主体は女ということになっているのだ。

 ということは、男が長湯して、学習能力のない女が外でいつも待っており、せっかくあったまった体も冷えてしまうという歌だ。というのを回顧しているらしいが、どういうことであろうか。男が女より長湯というのは、当時の銭湯にはサウナなどないわけで、とうてい想像しがたい。唯一の理由は、男が長髪だったかもしれないことである。

 ということは、最近離婚した松田聖子の娘の相手方のような長髪だったということであろうか。であれば、長々と洗髪していた可能性がある。当時は、少なくとも函館では、長髪の男が髪の毛を洗うという場合には、最初に申告して余分に金を払うことになっていた。東京もそうだったのだろうか。女風呂は最初から高く設定されていたのだろうが、男は人によっていたわけだ。

 昔の学生はたしかに長髪だった。短髪は保守か右翼か体育会だけなので、それだけで知識人学生を挑発するものがあった。そういう時代を感じさせるが、それにしてもなぜこの女は、いつも待たされる♬♪と回顧しているのか。少しずらして示し合わせて、二人で出てくればいいのに。声を出せば、となりに筒抜けではないか、銭湯は。

 ということで戦闘的気分になってしまう、この歌詞。こういうところが気にならないというのが、はっきりいって、気にいらない。

 うーん。頑固爺となりつつあるのではない。昔からこの歌は嫌いだった。貧乏くさいのは現実だけで十分ではないか。いま拙者は下の届いた主にポルポーラの18世紀前半の豪華な世界に浸りつつ、ものだらけの自室で書いているのである。

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 それにしてもバルトリ(女性)は毎回、変装しているが、今回のはとびきり無口になってしまうなあ。