panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

スポーツってなに?

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 ようやくリフォームは終わった。

 と書きたいところだが、まだ、畳の入替が終わっていない。今週はずっと函館にいるので、早くても来週(11日)以降になる。いばらの道は終わらない。いばらである。いばらきではない。威張る気ではない。威張ってどうする? しばらく茨城、いやいばらのことは忘れよう。

 昨日でラグビーも終わった。南アフリカが強いのか疑問だが、キック3点ばかりで点数を入れていた前半はあれでいいのかと思う。ダイナミックな予選のラグビーを眺めた目からはサッカーみたいな感じがして、あまり好ましくなかったが、後半はトライを二つ決めた。たしか。やはりこれが勝利の戦術なのか。日本戦でも南アはこういう試合の仕方だったなあ。たしか。というか、じゃね?・・・まったく、にわかなもんで。なんにもわかってはいないのだが。

 今後はサッカーの人気が落ちるように思う。サッカーはちんたらしてる感じが強くなった。サッカーが出てきたときは、野球がちんたらしてる気がしたが。

 ということで、まったくスポーツをしないポキとしては、現代資本主義、現代国民国家、現代グローバル経済、芸術の商業化著しい文化世界、つまりいまの世の中にとってスポーツってなにかを考えざるを得なかった。

 オリンピックもそうだが、こんなに国費等を投入して、一部エリート選手の、しかも相当な経済的国家的配慮に支えられた、世界分布としてはかなり出身によって不平等な争いになる国際大会を喜ぶ必要があるのだろうか。とくに南半球の貧困国家にとって温帯的な活動でしかないスポーツをいわば国際標準として強いられるのはどうかと思う。スポーツしないといけないものなのか?

 オリンピックの全競技をある程度人々が楽しんでいる国は限られている。中国でカヌー競技場がどうなっているか一度調べてみたらよいだろう。蜘蛛の巣だらけだろう。

 スポーツを無条件にありがたがる品性がどういうところに起因するか、まったく不明である。何も具体的に生産しないのに(感動なるものは生産していると豪語しているようだが)、これほど当然のごとく莫大な費用を要する非生産活動というのが、結局、アメリカのテレビ局を頂点とする商業活動=興行であるにもかかわらず、なぜ無条件で認められているのか。スポーツに関心のない人間には、不可思議以外のなにものでもない。

 面白かったのは国家単位の競争だからであって、戦争の代わりかもしれないが、そういう疑似戦争で勝とうとするより、もっと金の使い道はあるように思うし、スポーツばかりやってると、やはり時間収支の限られた人間というものには、教養の完成という点でどうしても欠落が生じる。スポーツが教養の代替となる世の中というのにはぜひとも反対したいと思うが、事実、大学推薦入学の大半はスポーツ関連で、文化的能力はまったく評価の対象外なのである。これって、これでいいの?