panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

ものにはほどがある

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弱者 - Bing images

 ようやく梅雨が晴れたが、気は晴れない。仕事が残っているのである。憂鬱である。この仕事の中身は、評価すること、である。高く評価したいのに、対象者はそうでもないらしく、つねに芳(かんば)しくない。くっ〇ー。

 さて投票には行ったが、山本太郎の政党にはまいった。代表制民主主義というものがわかっているのだろうか。どうして誰もその政党の議員となったALS患者やからだのほとんど動かない人が議員として活動できるのかと問わないのか。代表というのは、そういうことのために用意された制度ではないのか。

 貧者を救うため、貧者を代表に送ると、その議員となった貧者は、とたんに年間3千万ほどの所得を得る高額所得者となる。そうなると、ある者の変質が生じるかもしれない。金に目がくらむのか、もともとよからぬことを考えていたのか。

 この場合、金の力や恐ろしさを知っている中産的代表者のほうが、金に転ぶことなく、貧者たちの意見をよりよく代表できるのではなかろうか。

 自己同一性の罠にはまった感の強い、左翼の極致ともいえる太郎政党の戦略に、左翼的なことには一切弱い有権者の一団が投票することになったわけだが、まさかこれほど有権者が左翼的思考から不自由であるとは、ポキは思いもしなかった。

 そもそも政治家を志すという時点で政治家たちは反社的臭いをまとう。いまどきまともな人間が政治家になどなろうはずもないからである。そのなかでより腐っていないリンゴを選ぶのが選挙なのだ。どうしてこうもみえすいた弱者戦略を訴える左翼の詭弁に、人びとは動かされるのか。アホなのか。純情なのか。純情なアホなのか。

 そして、なぜ誰も、ただの一人も、そういう代表者にきちんとした政治活動ができるのかを問いただそうとしないのか。

 と上半身裸で仕事をしながら思うのであった。暑いなあ。