王の二つの身体
来週で平成は終わるが、天皇および皇后に関する人々の対応をみていると、といってもテレビでテレビ局が選択的に取り上げたものだけをみているわけだが、ドイツの哲学者カントロヴィッツ(チかもしれない、いまの翻訳では)の王の二つの身体という有名な概念を思い出した。
例えばルイ14世は生きたルイ、したがっていつか亡くなる身体であるルイであるだけでなく、そこには不死の永遠の王としてのルイでもあるということだった。
でも天皇皇后陛下に対する民衆の反応はむしろ、死すべき身体としての、生身の天皇皇后への気遣いである。30年の平成のなかで象徴たるべく、体に鞭打つかのごとく努力した人間としての天皇一家への感謝である。
天皇という尊い血脈、世界でもっとも古くから続く王家への畏怖なのでなく、いまそこに戦後を共に生きた人間としての天皇皇后への愛着なのだということに、少し驚く。
そういう歴史的想像力がいまの日本人にはないのかもしれない、という解釈はありうるが、努力する人間に対しては、どんな階層、どんな職業の人間に対しても、きちんと評価し尊敬するという、日本文化の一つの特徴が出たのではないかという感じがする。大工の棟梁への尊敬と基本的に同じものなのではないか。
それが不敬であるようにみえないところが、やはり戦後の象徴天皇というものなのかもしれないなあ。
A. VIVALDI: «Juditha triumphans» RV 644, I Barocchisti / Coro della RSI
ユーディッタの勝利というヴィヴァ君のオペラのなかで最良の演奏。例によってファソリスの指揮。ファソリスは買いである。しかしこれはいま、CDは売っていない。アマゾンで買えるのはMP3のである。まことに残念である。