panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

静寂と脆弱と贅肉と

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 今週はずっと出ずっぱりなので、昨日は帰宅直後に風呂に入って心身をいやす。いやっす。ではない。癒す、っす。

 今日も午後には出て6時前には帰るという仕事の始まり。雨はあがって完全な晴れである。うれしい。とうとう凡庸な感性になって、雨が好きだったというドナルド・キーン(トランプではない)よりも日本的感性が落ちてきたのかもしれない。でも晴れていると、桜が綺麗だ。まだ桜はよく咲いている。

 居間から幼稚園の園庭がみえ、それが一面のガラス(窓)を覆って見えるのがますますいい。

 コーヒーを飲んで、本を読んで(仕方ないので柄谷の『世界史の実験』をいま読んでいる。というかあっという間だ、この岩波新書は)、18世紀前半の去勢男子たちのオペラを聴いているのが至福である。この三角関係のなかで唯一変化したのはクラシックの内容がバッハ、シューマンというドイツからイタリアになったことくらいで、この辺境中学生の夢はいぜん続いており、ほぼ実現している。

 ただ嫌なのは、こうして大人数と中人数の社会的ふれあいに出かけなくてはならない点だけである。午後はそういう仕事である。少人数ならさすがのおそらくホモサピエンス嫌いのポキとしても何てことはないのだが。

 昨日非常に体中から力が抜けたのは、ポキと同じ出身大学の研究希望の女性が自殺した事件だった。二年前に43歳(?)で亡くなった。そのニュースの惹句はこうだ。「家庭(家族)と安定がほしかった」。悲しすぎて、涙も出ない。富国強兵と同じくらい、事態の性格を正確につかんでいるのではないだろうか。この言葉は。

 つくづく日本社会はおかしいところに行っているし、好きになれないし、そもそもそういう原因をつくったのは無責任な政府、この文脈では文科省だという認識は強まる。文科省財務省アメリカのような社会にしたかったのか、日本を。移民社会アメリカに。

 イギリスの著名社会学者、鉄道関係の労働者の息子でLSE教授だったドナルド・ドーア(トランプではない)は、『幻滅』という最近の本で、自らを嫌日家になったといい、それがアメリカ帰りの留学者たちが偉くなって、アメリカ流のやり方を持ち込んだからとはっきり述べている。だから幻滅なのだが、それは平成の時代とほぼ一致する。

 平成に職業生活を送り、平成に子供を育てた(のをそばでみていた)ポキとしては、この30年の一回限りの人生の時代が日本の失敗と暗黒の時代だったということになるのではないかと、危惧を覚える。最近はサルトル的嘔吐感が強いのはそういうことを思うからであろうか。

 ヘンデルアリオダンテをききながら。