panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

対位法と遠近法




  バロック音楽は対位法的に書かれている点が、のちの例えば19世紀後半の国民楽派などの流麗で感傷的な旋律中心の音楽とは違っている。ドヴォルザークスメタナグリーグなど国民楽派を聴いていると、大河ドラマのテーマ曲を聴いているようで、きわめて退屈である。というか、マーラーなんかの現代音楽の成果はもう完全にいまの音楽家の語法の一部になっているので、クラシックも20世紀に近づけば近づくほど、新鮮さがなくなり、通俗的な感じになる。
  その点、バロック音楽はいつまでも新鮮である。また、ウィーン古典派も旋律自体がどこか人間の心情にフィットしておらず(!)、それが飽きのこない理由の1つである。ということは、ブラームスまでは許せるということであって、それ以後は、クラシック音楽といえども、いまの映画音楽と変わらない横志向の、つまり旋律中心的な音楽なのである。
  ヴィヴァ君はその点では対位法的というより、遠近法的印象を与える。対位法が中世以来の音楽技法だとすると、遠近法は近代的な絵画技法である。音楽の近代はむしろ対位法を放棄して成立するが、音楽の立体性はその後もずっと続く。遠近法もまた、絵を立体的にする技法の総体であって、さまざまな細かい下位区分がある。一度その種の本を読んで、頭が混乱したことを覚えている。
  いずれにせよ、対象を立体的三次元的に捉えようとするリアリズムがその根底にある。ヴィヴァ君はその意味でリアリズム的にみえる。しかも対位法的とうより、色彩的な遠近法を思わせる。
  ということを朝、考えてみたが、あくまで印象である。あくまでお盆にちなんだ、怠惰な態度の実践であると考えて、お笑いいただきたい。
  なお、ポキが読んだことのあるのは、真ん中の本だけである。ラッセルが怠ける?なんて、到底反語だとしか思えないから。でも持ってはいるのだが。