panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

東京の一番暑い日に、、、

https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa#mode%3Ddetail%26index%3D6%26st%3D115(おそらく凱旋門から南をみているところ)
  世界ふれあい街歩きラオスの首都ビエンチャンのを録画で見る。なつかしい。一人の美人美男も出てこない。ラオ族は大きい括りではタイ族なのである。
  とにかく暑くて自宅に閉じこもっていてかなりディプレスしてきたので、近所のスタバに行ってみる。自転車で1分半。しかしキャラメルなんとかが470円は高い。税付きでは500円をこえるわけで。しかもこれはトールの値段だ。つまり一番小さいsサイズ。わけがわからん。小柄なのに、長身なのか。ちょっとした差別ではなかろうか。
  結構賑わっていたので一安心。地域のスタバをつぶしてはならない。
  ともあれ帰宅してビエンチャンをみて、ようやく涼んだところである。やはり自宅が一番暑い。クーラーなしだと。今日のような日に、クーラーのない辺鄙なところ(山奥)にいる人物は生きられるのかを案じている。川に飛び込んで涼むよう進言したい。
  ともあれ、フランシス・フクヤマの本はあまり進まなかった。フランシーヌはパリで燃えて亡くなった。フランシスはベーコンを食べて画家になった。フクヤマは目黒でビルになった。・・・あ、こわれてるかも。ポキ。全部わかる人はおるまい。ふふふふふふふふふふ、狂喜なのか凶器なのか。

                                                                                    • -

  ふれあい街歩きは1時間番組なので一挙に見通すことがむずかしい。旅情をかねて番組のテンポがのろいからでもある。あらゆる意味でNHKなのだ。
  さてアジアの街をみると、なぜグーと胸を締めつけられるのか。基本的に開放的な家のつくりで、道も広く、歩きやすいつくりになっているところに、そもそも警戒心の弱そうな人々がにこにこしているところなのか。それもあるが、今回思ったのは、その町のつくりそのものがいいということである。
  東京のようにせせこましく立て込んでおらず、外に向かって広がっている。昔、縁側の思想などといって一世を風靡した建築家がいたが、縁側は個人と他者の境界をはっきりさせた上でその間(あわい)を相互に楽しむという発想だった。しかし熱帯アジアに自他のはっきりした区別を重んじるという思想はあまりなさそうにみえる。だからどれがどれだか、どこがどこだか、まるっきりはっきりしないまま、あかちゃんや孫たちが大人と一緒になって縁台で涼んでいる。
  だから敷居は低い。というより敷居は目に見える形ではない。日本の田舎でも冷蔵庫を勝手にあける近所の人がいるものだが(カリフォルニアも実はそうだった)、そういう感じ。でも普通の日本人はそういう振舞いを傍若無人と思うはずで、だからそういうことは卑しい行為になる。これは自分のものは自分のものだと思っているからで、個別的所有にこだわるということである。
  東南アジアの連中は自己本位だし、金に汚いように思えるが、同時にイスラム教徒のように、相互扶助が経済の本質をなしているようなところもある。その点が共同で営む生活の現場ではむしろ優位しているのではないかという「感じ」をもった。今日のビエンチャンをみていて。
  そもそもビエンチャンは一国の首都である。何百年も前から一番の都市である。そこに住むいわばアメリカならニューヨーカーたちがあんなにも素朴なのに、強く胸をうたれる。実際、ポキがビエンチャンで何日かいたときもそう思ったし、いまそれをまざまざと思い出した。
  愛すべき80万都市ビエンチャン。歴史の上で最も暑い東京の夜に、ラオスを思う。うーん。涼しくなる。