panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

われらすべて大阪人-------仮想大阪人ボーン・イン北海道、語る



  中田ダイマル・ラケット夢路いとし喜味こいし、そしてルーキー新一
  我輩の幼少のみぎりの原風景は、大坂の工場を背景とした下町の食堂やスチャラカな会社の一室である。そういうお笑いの舞台が、昔を思いだそうとすると、いつも浮かんでくる。実際にはそんな環境にはいなかったのだが。当然ながら。でも我輩をつくった成分の重要な一つは、明らかに大坂だった。
  テレビを通じて我輩は大阪人だった。一方では(現実には)北海の灰色の海が目の前にみえるのだが、もう一方の能天気な脳のある部分では、大坂の工場街が再現されている。すべてはテレビをとおしてやってきた。土曜や日曜のお昼の憩いの時間に家族でみていたのは、当時のお笑い先進地帯だった大坂からの中継だった。生放送だったかもしれない。いまだ北海道方面まではやってきていなかったように思うが、それでも高度成長の熱気にさそわれて、道産子である子供の我々はアホなお笑いをみて、陽気だった。たまさか大笑いしていたかもしれないが、慎み深い我輩のことである、決して哄笑はしなかったろう。でも笑ってはいたのである。お笑いって面白いと心底思っていたのである。
  少し大坂について思うところがあって、触れてみた。我輩の原点が大坂にあるというのもいまとなっては不思議である。そう思う方も多かろう。謹厳実直素朴にして華麗な我輩を知っている人は。ふふふ。ふふふふふふふふふふふふふ、ふっ。
  でも岩井シマコだの中瀬ゆかりだのの低俗な笑いが、どうしても嫌いになれないのは、まさに理想としての大坂を、電波を介して、小学生の子供があびつづけていたからに他ならない。・・・当時のお子さま道民のなかにはそういう人も少なくないのではないかと思い、筆をとった次第である。だから、大坂に行くと、ふるさとにかえったようなわけのわからない気分になる、、、のではなかろうか?(ルーキー新一が恐喝事件で追放されたことは覚えていたが、最後は餓死したということをさっき知った)