panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

北の国からこんにちは

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  重点措置というか蔓延防止が今夜から東京に施行されるようである。がっかりというより、遅いというべきかもしれない。無為無策の政府・自治体には今更何もいうことはない。昨日も一年ぶりの公開の席にいくためN95マスクを使用して出かけた。それでも密な状態はいかんともしがたく、今日はそもそも、外出の予定をやめた。

  田中邦衛が亡くなり、最後の方は認知症だったと思われるが、88歳は今どきの基準ではまだ若い。5歳年下の父方のオジがよく似た感じで、ということは83歳か。道央あたりに一時住んでいたから、五郎の弟くらい、六郎といってもいいだろう。いいとは思えないが、いってみた。

  つまり、田中邦衛は岐阜の出身だったが、いかにも北海道らしかった。第一にどこか貧しい。富良野のなかでも貧しいという設定だが、あの時代にああいう人間はかなりの少数派だった。東京で失敗して故郷に戻るという設定(だったと思うが)も、悲しいものがある。通常出稼ぎで戻る場合には、負傷するとかもう死んでいるとかが多い。北海道では。

  五郎は出稼ぎではなかったが、まあ、似たようなものか。よく死んだという情報が飛び交っていたなあ、辺境北海道では。東京の地下鉄を夜作っているのは出稼ぎである。そういうところで事故は頻繁に起こる。トラック運転手も事故でよく死ぬ。疲労で不注意になるからである。金回りのいい成功者はしばしば破産して自殺する。我輩のかなり仲のよかった小中のチビの同級生はそうやって八王子で死んだ。のっぽの母親にはとうとう知らせなかった。認知症気味だったから、わからないまま死んでいった。

 というわけで、田中邦衛が亡くなり、九州の結婚式に出て、北の国からこんにちは!といってスベったことを思い出した。片側の親族が相手側の家柄の不透明さに反対して出席していない式だった。ま、そんなこともあるかと当時は思い、重大だとは思わなかったが、いまから考えると、ゾッとするなあ。そういう意味では、部落出身者の天国である北海道という、日本のアメリカ西部は、貧しいとはいえ、まだ救われているところなのであった。・・・でも北海道出身力士がいまは3人しかないという北海道はすでにかつての北海道、北の国ではないというべきなんだろう。

  

 

また1日を忘れてしまっていた

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  新年度が始まってしまい、コロナ激化と相まって、関東ではもっともよい季節がいつも以上に慌ただしくなっているせいか、1日に書くという習慣を完全に失ったかもしれない。

  医療システムの改善もワクチン輸入の拡大も進まず、治療薬の開発もない。ビルマに対する毅然とした態度もなければ、専制国家への明確な意思表明もない。そういうないない尽くしの新年度。まことに慶賀に存じまする。

コロナ解除をハッセで祝う


Enea in Caonia, Pt. 1: Sinfonia

  10年前の東北震災のときは民主党菅首相だった。今回のコロナは自民党全般的低能内閣の菅首相である。これらの難事にトップがいずれもこうであったこと?に国民的哀しみを覚えつつ、解除の日を迎えた。しかし全体的に、どの時代も、日本のトップリーダーシップは低空飛行者であったことを思い返すと、人というよりシステムの問題、あるいはシステム運用の問題に決定的な欠陥があったということなのかもしれない。ギリシアの例のように、民主主義というのはこうした頽廃がかなり短期的にやってくるという危うい制度的仕組みなのである。ともあれ・・・こうやって一国が落ちぶれていく過程でオリンピックまであるというのは、もう吉本喜劇である。

  前回はヴィンチだったが、今回はハッセ。カノニアのエネア、って誰? 二つとも大した傑作ではないが、網羅する意志の下、コレクションの対象なのである。

  さてまた帰郷することになり、せっかく桜の満開近くなった首都圏を離れることになる。しばらく帰ってくることはない。北海道はまだたまに零下である。それを思うと、いまから心が冷え込むのであった。

完全に忘れていた


Vinci: Gismondo, re di Polonia, opera in three acts | Martyna Pastuszka

   1日に書くという習慣を完全に忘れていた。いかんせん、カクカクいう膝もそうだが、心身ともに急激にコロナ惨禍に陥った感じである。今年初めまではなんということもなかったが、自粛も一年。その予期せぬ結果ということなのだろう。

  ということであるが、このYouTubeがヴィンチの最新のCDと同じものかどうかは分からないが、また新たなオペラが発売された。でもこうして聴けてしまうところにCD業界の苦しみを感じる。

  ともあれ5月の陽気の関東圏だが、来週また北帰行するのでまたこちらの冬に逆戻りである。そう思うと、苦しいこと夥しいが、ま、致し方あるまい。

フレイルは「加齢により心身が老い衰えた状態」のことである。

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   こんな凪続きの強いられたインドア生活を続けていると、心身ともに虚弱になってしまう。明日は一週間ぶりに出勤しよう。

  前回のグラウンのところで、今日聴くと、第11トラックにYouTubeがなっているのを発見した。どういうことで入れ替わったのか。それとも最初からこのアリアだけをフィーチャーしていたのか。

  ともあれ、なんだか相当に停滞的な気分である。強いられるというのが、いかんのであるね。抵抗するインドア生活というのもあるわけで。ただ現実に順応するためのインドアというのはたまらなく不快だが、そう思う心持ちも弱っていて、大した怒りにならないという、虚弱な二重奏なのである。

2枚組4000円の弟グラウン


Polydorus, GraunWV B:I:3, Act I Scene 6: Mich sucht der Götter Rache

  去年出たグラウン兄弟の弟の作品。アメリカからのアマゾンのコメントはこういっている。Delightful music reminiscent of JS Bach cantatas but in Opera form with beautiful music passionate and historically informed playing. Very good soloist and a solid orchestra make this very easy to listen to.

  外国から取り寄せて4000円を超える。無事着くとしての話だが。忘れたころにやってくるのだが、YouTubeで聴くだけで我慢できるかが問題だ。所有するとあまり聴かないことも多い。でもあるということは確認できる。いつかどこからか出てくるので。そういう価値があるだろうか。第11トラックがグラウンらしい哀切を感じさせるのだが(YouTubeに戻して聴くと、トラック別に聴けるはず )。

  グラウンはヴィヴァ君を再発見するまでは何としても買い!の対象だったが、いまとなってはドイツの作曲家はやはり同時代のイタリアの華麗な作曲家たちに劣ることは明らかだ。どうするか、買うか買わないか、迷うところである。

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  ちなみに作品番号がこうある。Graun WV B:I:3。いまではカールのほうのグラウンについてこんな複雑な作品番号が振られる時代になったのである。うれしい。1735年以来、上演されたことのないオペラではあるが、ウィーン古典派重視のドイツ音楽史はとてつもない見落としをいつもしているわけである。それはドイツナショナリズムの具現として音楽史を作ったからである。

  そもそもウィーンはドイツか? ベト君もブラームス君もウィーンに行かなければならなかったということの意味を問い直すべきである。

一息つくと、コロナ惨禍下の社会の退屈が待っている


J.Chr. Bach Missa da Requiem and Miserere in B flat major

  2月は最初の日から珍しく忙しかったのだが、先週末でようやく解放される状態となった。慶賀。

  首都圏は陽気もよく、でも室内にいるわけだが、案に反して感染者数の減り方は鈍化し、200人台への下降は進まない。依然300人台前半でウロウロしている。やはりもうこれ以上、急激に減ることはないのかもしれない。この程度が長く続いていくのかもしれない。その間にワクチンがやってきて何とかなる、ということなのかもしれない。

  それにしても飽き飽きしたので、半年以上ぶりに昼を外食しにいったら、たるんだ我輩同様の人々が行列をなしていて、そうでない店に入ると、仕事をしている20代の男が全然マスクをしていない。ずっとしていなかった。これは店の人間が注意するべきものではないのか。アルバイトであろうと店の人間が。

  マスク警察の問題はよく取り上げられるが、自分がその場に居合わせると、やはりかなり不愉快になるということも事実だ。ちき〇〇〇!

  何事もなく帰宅したが、もう体力は残っていなかった。行って帰っただけなのに。宝の山をみつけたが、持ち帰れずしまいに餓死してしまうような昔話の主人公になったような気分なのだった。

  

問題は政治側である

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  この写真は私の澄み切った心持をあらわしている。掲載した次第である。

  ところで感染者数は今週後半には200人台に落ちるはずである。傾向的には。そうなれば、もう非常事態解除手前である。ところが医療状況は少しも改善していないようにみえる。これがネックとなって解除は来月に延びるだろう。

  だから、つまり、問題は医療システムの機能的改善につとめない政治側にある。もう社会に自己規制を求めるのはやめてほしい。自分たちが政策的に何をやっているかを示すべきだ。何を一体やってるんだろう。官僚も政治家も。

株価3万円をこす日


Samuel Mariño - debut album "Care pupille"

  1990年以来である。二度目のイギリス留学の前の年だった。だから、我輩は意気揚々として古びた大国に行ったのである。その年の夏、ギリシアの海岸でイギリス人が愚妻にもう日本はダメだみたいなことを云っているのを遠目でみて、何を世迷言[よまいごと]を云っているのかとクスッと笑ったくらいにしていたのだが、ふふふ、先見の明のない点では人後に落ちない我輩のいつもの愚昧な行為だった。

  ともあれ、30年ぶり高騰を目にすると、どうせ外国人投資家の投機だとはいえ、現今の経済システムのどうしようもない破廉恥ぶりに憤りを覚えるどころか、無気力感が増してくる。これが世界経済というものなのか。

  このデビュー作を買うことにした。声自体がもうおかしい、この歌手は。

勘違い夥しい日々

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  こんな気持ちである。ボノンチーノのPolifemoが届いて聴いたのだが、いっこうに先日のYouTubeの音楽が出てこない。2枚組全体がかなり古い感じの楽曲からなっていて、ボノンチーノ自身がバッハより15歳年上であるということが、とくにこの時代の音楽を考える場合には大きくて、やはり時代の制約を感じさせるものなのだった。この二人のちょうど中間にヴィヴァルディが生まれているのだが、この7,8年ずつの年齢差プラス地域差が音楽に確実に反映しているのである。

  で改めて見てみると、先日のはポルポーラ作曲のポリフェモではないか。大いなる勘違いだった。道理で前に聞いたことのある曲がいくつかあって、アンソロジーの何かで聴いたのであろう。それがポルポーラだったわけだ。うーん。

  注意散漫、美酒爛漫。気を付けたい。老化と思う。どうかと思う。

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  ポルポーラのはcdは全曲盤はなく、アリアがいろんなものに分散して録音されているようである。上のは私の持っていないものだが、もうデジタルでしか買えないし、全曲盤ではない。つまり、全曲盤は、しつこいようだが、ないのである。

  繰り返し検索をかけていたら、このcdが買えた。最後の一枚が340円くらいだった。いま注文した。なんで素直に一発で検索にかからないのだろうか。いずれにしても万が一、既にもっていたとしても、この値段なら構わない。ま、とっても嬉しい。

  ただし外国人評をみると、このcdは最悪の一枚ということのようである。