panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

皇太子から天皇に

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 そういえば日曜日の即位パレードを食い入るように眺めていたのは、それは、一時、ポキの付近でポキが浩宮さま似だということになって、いまでも似ているのかを確認したかったからである。

 そもそもポキの鼻は鉤鼻ではない。ユダヤ人ではないし。しかし皇太子変じて今上天皇の鼻は鷲鼻っぼい。その点は違う。また、髪型も圧倒的に違う。というか、あれば今上天皇独特のもので、ああいう髪型をしている臣民はいま、あまりいないと思う。だからポキも当然違っている。さらには、手の振り方もおそらく、違う。指と指の間をあけて手を振るというあの独特のスタイルは、不敬ではあるが、できればやめてほしい。皇室でああいうお手振り(!)をしているのは今上天皇だけである。加えて、あの善良そうな雰囲気はポキにはまったくない。ポキは鋭角的な、はずである。

 それでは何が似ているのか。シルエットが、残念ながら、似ていたことは否定しがたい。重ねて残念だが、そう云わざるをえまい。

 あとは品格くらいか。

 ということで、今後は民間天皇とポキを呼んでもいいし、うちの家庭を民間皇室と言うことも許すが、それでつかまることはあるまい。ただし呼んだ方は、その品格を疑われることにはなるだろう。

 ということをつらつら考える日々。・・・まさか。いま考えてみた次第。

 グルックの届いた4松組の皇帝ティトの慈悲(メタスタージオの台本)を聴きながら。

即位パレードの日 東京は暖かった

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 しばらく辺境に行っていたので、この関東の暖かさは尋常なものとは思えない。とはいえ午後3時、皇居付近は決して暖かそうにはみえなかったが、しかし北海道はすでに冬なのである。

 さて、このフェーリ・ベネディッティのCDを買おうと思ったら、こんな評価が出ていた。「I have a great interest in the Baroque Period of music, and especially love the opera arias written for the castrato, which I feel is some of the most emotionally inspired music ever written. Of all the counter tenors I have heard, this performer moved me the least. I did not care for his voice quality, and after hearing the cd through, took it out of the CD player in my car, and into the library, likely never to be heard again, by me atleast. I have always been a fan of Hasse, so did give three stars because of the material presented, and great liner notes, otherwise I could not recommend this cd.」。

 これはあまりにひどいのではないか。次のがこのcdの第一曲目だと思うが、いかに。


Ristori - Le Fate - Bellezze adorate - Ferri-Benedetti / Il Basilico

 パレードよりも、いまはこっちのほうが重大問題である。でももう買った。彼のcdはこれで二枚になった。いい曲だし、カウンターテナーとしては水準をいった歌唱だと思うのだが。

スポーツってなに?

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 ようやくリフォームは終わった。

 と書きたいところだが、まだ、畳の入替が終わっていない。今週はずっと函館にいるので、早くても来週(11日)以降になる。いばらの道は終わらない。いばらである。いばらきではない。威張る気ではない。威張ってどうする? しばらく茨城、いやいばらのことは忘れよう。

 昨日でラグビーも終わった。南アフリカが強いのか疑問だが、キック3点ばかりで点数を入れていた前半はあれでいいのかと思う。ダイナミックな予選のラグビーを眺めた目からはサッカーみたいな感じがして、あまり好ましくなかったが、後半はトライを二つ決めた。たしか。やはりこれが勝利の戦術なのか。日本戦でも南アはこういう試合の仕方だったなあ。たしか。というか、じゃね?・・・まったく、にわかなもんで。なんにもわかってはいないのだが。

 今後はサッカーの人気が落ちるように思う。サッカーはちんたらしてる感じが強くなった。サッカーが出てきたときは、野球がちんたらしてる気がしたが。

 ということで、まったくスポーツをしないポキとしては、現代資本主義、現代国民国家、現代グローバル経済、芸術の商業化著しい文化世界、つまりいまの世の中にとってスポーツってなにかを考えざるを得なかった。

 オリンピックもそうだが、こんなに国費等を投入して、一部エリート選手の、しかも相当な経済的国家的配慮に支えられた、世界分布としてはかなり出身によって不平等な争いになる国際大会を喜ぶ必要があるのだろうか。とくに南半球の貧困国家にとって温帯的な活動でしかないスポーツをいわば国際標準として強いられるのはどうかと思う。スポーツしないといけないものなのか?

 オリンピックの全競技をある程度人々が楽しんでいる国は限られている。中国でカヌー競技場がどうなっているか一度調べてみたらよいだろう。蜘蛛の巣だらけだろう。

 スポーツを無条件にありがたがる品性がどういうところに起因するか、まったく不明である。何も具体的に生産しないのに(感動なるものは生産していると豪語しているようだが)、これほど当然のごとく莫大な費用を要する非生産活動というのが、結局、アメリカのテレビ局を頂点とする商業活動=興行であるにもかかわらず、なぜ無条件で認められているのか。スポーツに関心のない人間には、不可思議以外のなにものでもない。

 面白かったのは国家単位の競争だからであって、戦争の代わりかもしれないが、そういう疑似戦争で勝とうとするより、もっと金の使い道はあるように思うし、スポーツばかりやってると、やはり時間収支の限られた人間というものには、教養の完成という点でどうしても欠落が生じる。スポーツが教養の代替となる世の中というのにはぜひとも反対したいと思うが、事実、大学推薦入学の大半はスポーツ関連で、文化的能力はまったく評価の対象外なのである。これって、これでいいの?

 

 

その後の日々

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 まだ完全にはリフォームは終わっていないが、誰も外部から来ない状態にはなった。週末、最終終了確認書みたいなものと一緒に、いくつかの扉がやってくるのだが。

 こちらは、もう自宅に置けない本を段ボールにつめて、11月函館に帰るときにあわせて発送する予定にしているので居間とか自室は相変わらず、とはいえ、少しはましになった状態で、混み合っている。

 その意味では相変わらず弱者の生を送っているポキなのである。

台風に始まり、台風に終わる

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 昨日、とうとう長いリフォームが一応終わった。一応とは、またまた生じたミスで後から扉や沖縄畳などの取替を行うからである。でももう連日、朝から業者がきて、一日中、ただ家にいて形だけ在宅の責任を負う義務もなくなった。

 思えば長い5週間だった。始まったのが9月9日。つまり台風15号が千葉を襲った日である。こちらもベランダの草木を居間に運んだ。他方で大きい荷物は外に出すということを行ったので、ベランダはそれから5週間、セーターやらシーツやらの入った、よく大型スーパーで売っている長いケースによって占領される事態にあいなった。

 そして昨日は、午後から雨が降り出した。そして今日は、史上類をみないほどの大型台風19号が関東を直撃することになっている。いま午前中だが、雨雨雨である。ただし風は強くない。もし昨日で終わっていなければ、リフォームはまた新たな困難に直面し、ポキももっと深刻な鬱状態に陥っていたであろう。うーむ。

 台風に始まり台風に終わったこの約一か月。ポキは仮設住宅というものの怖さを知り、自由を奪われ居場所を失った悲しみを味わい、無能な男の仕事ぶりというものを痛烈に経験した。もうこういう不手際オンパレードの祭典には参加したくはない。と強く決意するのであった。

 が、仕事のできない男というのはどこにでもいるのである。それが恐怖である。

 もうしばらくしないと、室内自体が混乱しているので、落ち着かないだろう。エコノミー症候群が完全に消えたとはいえないのである。嗚呼無常。

 

地上内エコノミークラス症候群

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 とうとう専門的な連中が遠く東京の果てからやってきて、うちのリフォームにいどむことになった。全面的にやり直しを行い、結果、二倍の日数を要して、ついに10月半ばまでずれ込むことになった工期。

 結果として、ポキは深刻な鬱になり、体にはエコノミークラス症候群の症状が出てきた。顔色は悪く、やる気がでなく、午後になると鉛のように重くなった体をベッドでいやすという悪循環である。そのため夜の寝つきは悪く、顔色が悪く、、、、、、。

 狭いゴミ屋敷マンションが飛行機の座席となり、ポキはいまや地上にいながら、空中の人となっているのである。ああ、無常。いや無情。無上の苦しみ。まるで中国のウィグル人や移民施設の明日なき亡命者の心境なのである。つまり心境は新疆ウイグル自治区

 福島香織先生著の巨大な監獄国家中国のウィグル人なのである。チベット人といってもいいが、カンボジアのクメールルージュ支配下にある近視の人間といってもいい。眼鏡をかけているだけで強制収容所送りとなるあの悲劇の小型版をいま生きているのである。、、、大袈裟化。いや、大袈裟か?菩薩の救いを待つ受け身の日々だということである。ああ、苦し。

 仕方なく、アマゾンプライムビデオで時効警察を眺めるのであった。

 

だれか、どれか、アヤコ

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 いぜんゴミ屋敷通信なのだが、もうあきらめた。長期戦となるだろう。

 その間、大量の本が布団類とその上の衣類類?の下に地層化しているので、必要な本が手に入らず、仕方なくなぜかあった(100円で買ってきたのだろう)曽野綾子の本を読んでみると、意想外に、ためになる。というか実に奥深い。というより、最近のポキの考え方にそっくりなので、意外の感にうたれつつ、ページの端を折ったりしているのである。

 さすがに線を引こうとは思わないが、実家になぜか自伝とともにあったもう一冊の佐藤愛子の本にも感心したところがあって、読み続けるためこちらに運んできたこともあったし、昔の?日本の随筆家たちの文章というのが読むに値することに気づく。

 気づいていなかったわけでは勿論なかったのだが、本は売るほどあるし、そこまで手が回らなかったというに過ぎない。でもこの自宅の惨状の下、読む機会が与えられた。こういうとき、曽野綾子は神のご配慮と思うのだろうが、ポキが思うのは、ただ、イモトアヤコの行ってQは今夜だったし、同じ綾子だなあとかということなのであった。

 しかし明後日の仕事にやっていくズボンのベルトが見当たらない。うーん。まことに総力戦化したリフォームにはまいったまいった。

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 ちょっと必要があって前者は再読、後者は買おうかと思っているのであるが、理由は秘密である。

仮設住宅で生き延びる

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  ただ家にいるだけで絶望感がつのる、という新奇な経験に耐える日々だが、まだ生存している。しかし時間の問題ではなかろうか。明日からは、ポキの方が正規の仕事が始まってしまう。ポキ担当分は来週火曜日からだが。この重複は痛い。

 リフォームは延々続き、素人みたいな技術の職人なのか工員なのか社員なのかによって遂行されている。かくて延々と、不満の晩夏(不満の冬は有名なイギリスのストがあった冬を称する言葉)はつづきそうである。

 書くことがあって書こうとしたが、うん?、思い出せない。

  思い出した。革命や体制変革があっても、同じことが生じるということを韓国のことで思い出したということである。

 「(586世代は)民主主義に貢献した世代だが、既得権を握ったあとは子どもにそれを譲ることに罪悪感をもたなかった。それが86世代の偽善であり限界だ」
 「チョ・グク氏も既得権層であることがわかるとともに、はっきりしていなかった韓国社会の差別が鮮明に見えるようになった」。

www.msn.com

 これがフランシス・フクヤマのいう政治体制最大の課題としての「家産制の復活」という問題なのである。あーあ。変化とか変革とか言ってる人間のやっていることは1949年成立の現代中国をみればもっとわかるわけだが。ソ連だとノーメンクラツーラという階級に結実したし、血への執着をいかに断つか、という問題を🐵としての我々はいまだきちんとは克服していないということなのである。

仮設住宅では人は生きることができない

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 (昔のフィリピン本土研修のときの写真。この新しいブログの形式では古い写真も掲載できることを知ったので)

 さてリフォーム疲れという言葉があるのかもしれない。家を新築したら施主が死んでしまったという話はある意味よく聞く。気をつけろと。リフォームで死んだという話は聞かないが、死にかけることはあると思う。

 おりしも千葉の台風被害は国土強靱化を怠ったせいでもあるが、うちも今は居間が仮設住宅状態で、居間でテレビをみ、食事をしていると、なぜかある種の絶望感が襲ってくる。どうももう一人のほうも同じ心境らしく、ポキは昨日など、9時に寝てしまう。でもその結果寝すぎて腰が痛い。いっぱいこういう悪循環を経験しつつある。

 とにかく今の居間その他は一種の仮設住宅であるという仮説で考えると、なぜ仮設住宅で人は容易に死んでいくのか、地震津波そのものの被害より甚大な数がそうやって死んでいく事実を、身をもって体験中である。

 リフォームは台風15号が千葉に上陸した日にはじまった。そして停電が解消されるのは何度かの延長の後、いまは27日にまで達している。つまり3週間だ。そして当方のリフォームも、当初今週木曜日が終わりだったのに、28日(土曜日)までかかると言い渡された。

 営業が大工をやっている変則的な事態に不信の念はあったのだが、台風15号と同じ進路をとるとは思いもしなかった。うーん。先週はほとんど一人で何かやってたもんなあ。どういうこと?

 とにかくゴミ屋敷化した居間にうずくまっていると、悲しみと希望のなさと狭苦しさからくる緊張感とで、仮設住宅死を思う日々なのである。しかも、この間行っていたスーパー銭湯が昨日で休館し、12月まで開かないという。従来プランではもう家の風呂には入れたはずで、とくに問題なかったのだがなあ。・・・絶望感、ゴミのなかから立ち上がり。一句できました。

 

 

人間の変遷

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 赤い鳥から分派した紙ふうせん。もう一つの分派がハイファイセット

 ポキはハイファイセットの世代で、一つ前の赤い鳥(大正時代?の雑誌赤い鳥からとった名前というのが時代を感じさせる)については、ちょっと上のお兄さんお姉さん世代のもので、親の世代の三橋美智也田端義夫などのほうが、親から教わるので、むしろ親近感がある。

 おとなしい長男として生まれると、ちょっと上の世代の親戚がそばにいない限り、情報が実は入りにくい。ということで思わず盲点となる。逆にちょっと上の世代のアイドルでも大衆的な歌手だと、舟木一夫のように、ポキの周辺の親戚から学んだものである。うーん、学歴が高い方でないと、赤い鳥は聴かなかったからなあ。

 さてそういうことであまりよく知らなかったが歌は有名だから、皆さん知っているだろう。その紙ふうせん。たまに大阪系のテレビに出てくる下のほうの普通(以下?)のおじさんが実は上の細長い顔をした青年の後年の姿なのである。

 実に驚くべきではないか。下は下世話なオヤジにみえるが、上はきどった青年にみえる。歳月は同じ人物をこうも、つまり面長から丸顔へ変化するほど、変えてしまうのである。

 昨夜、リフォームがはじまって初めて外出し、大学のゼミ以来初めて会う同級生を迎えて三人で、横浜の野辺じゃなくて(それでは葬式だ)、野毛で会った。もともと体格がよかったが、ますますよくなり、かつ膀胱がんなどを患って、腰痛持ちであったりして、そういえばポキも回復中の腰痛であり、と30年以上会っていなかった人物を囲んで、いろいろ考えるところがあった。10年以上アメリカにいてアメリカで亡くなるつもりだったようだが、日本経済の悪化に伴ってもどっきていまは休職中。

 ということで、英語研究会の雄も、紙ふうせんとなりにけり。ま、ポキは紙ふうせんどころか、風前の灯火(もとしび)ではあるが。